goo

掛川の龍華院の紅葉


龍華院登り口の紅葉

昨日、掛川の古文書講座で掛川中央図書館に出掛けた際、龍華院の紅葉の様子を見て来た。登り口の紅葉はちょうど見頃に見えた(上の写真)ので、今朝、女房と出かけた。

昨年も12月10日、奇しくも同じ日に図書館のついでに見ている。去年の方が真っ赤できれいだったように思うのは、天気が良かったせいであろうか。今日は薄曇りで時々日が差すようなお天気である。

龍華院と大猷院霊屋のある子角山は、今川の家臣、朝比奈氏の城のあった山である。登ってすぐに、現在龍華院と大猷院霊屋がある曲輪があって、尾根を輪切りにするような空堀の向うに本曲輪があったようだ。紅葉は主に龍華院と大猷院霊屋がある曲輪にあって、本曲輪は今は展望台としての公園になっている。

今、今川氏真に興味があって調べている。氏真は、駿府から武田信玄に追いだされて、家臣の朝比奈氏を頼って、こゝ子角山にあった掛川城に入り、今度は家康に囲まれて、因果を含められて、掛川城を棄てる。正室の里の北条を頼って東へ行くが、そこも長居が出来なかった。最後は徳川に拾われるという、戦国武将としては誠に情けない成り行きになってしまった。しかし、数ある武将たちが、安土桃山から江戸時代に入り、次々にその子孫が絶えて行ったのに比べ、今川は江戸時代を通して、高家として重用され、明治まで家が残って行く。

氏真の正室は、当時の例にもれず、北条氏との政略結婚で、戦国大名の政略結婚の多くが、これまた政略に依って離別されている。ところが、氏真夫婦はきっかけはともあれ、最後まで添い遂げている。また駿府で冷泉家から古今伝授を受けるなど、文芸面でも優れていたことがうかがえる。色々な面で、氏真は戦国大名には似つかわないキャラクターであった。

その今川氏真が一時にせよ、諏訪原城の城主であったことはあまり知られていない。現代でいえば、負け組だった氏真を、島田市では町ゆかりの武将として顕彰しようとしているとか、いないとか。愛知県吉田の吉良上野介、静岡県相良の田沼意次、静岡市の今川義元、浜松市の若き日の家康くんなど、今やマイナスイメージの部将たちを、顕彰するのが流行りである。

話しが色々と発展したが、そんなことを女房話しながら、紅葉見物を終えた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )