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大井河源紀行 13  3月18日 徳掘之内大泉院

(庭のツツジ)

藤泰さん一行は本郷の徳掘之内村(徳山)の大泉院に立寄って、休憩を取る間に、住職から色々なお話を聞いた。以下、聞き取った話を読み下し文で示す。

当寺は旧天台宗。中興永禄二年(1559)、洞家(曹洞宗)に転じ、同山堅林永周和尚中興せり。この僧は天正九年(1581)巳二月三日遷化(死去)なり。和尚自鐫(自彫り)の今上皇帝聖寿万々歳の尊牌あり。

また永禄中、三浦左馬之助と云う武人の祈願所にて、三十貫文の寺領を附け、興したると云う。三浦氏は按ずるに元今川家の旧臣なりけるが、永禄十二年(1569)甲斐の前国主、武田信玄入道、当国乱入の、武田家に属し、廿騎の士(さむらい)大将となり。天正の頃、ここを知行せしゆえなるべし。

※ 悦(えつ)- (=謁)、貴人や目上の人に会うこと。お目通り。

その後、慶安年中(1648~1652)、四石余の御朱符を賜い、寺領すと云う。この里より壱里半ばかりして、笹間の塁(とりで)本城山と云う所、古城墟(し)あり。里人の伝には、むかし、土岐山城守某二代、拠(よ)る所なりといえり。土岐某など、あまりに奇政にて、民の恨みを請けて、ある時、鞍下という所にて、流れ矢にあたり、亡失たると伝う。されぞ土岐氏の家伝、未詳。大泉院の前に御屋敷と地名する処あり。家長某の宅地と云う。里の貧民惣兵衛というもの、この子孫といえども證なし。

どうやら、この土岐山城守某が、強奪するように、神像を笹間渡から野志本にもたらし、八幡宮の元とした張本人で間違いなさそうである。真相が何となく分かってきた。

ところで、武田方の砦のあった本城山というのは、無双連山(無双嶺)の主峰(標高1083m)で、砦があったのは頂上から西に伸びた尾根上で、徳山城跡と呼ばれている。大規模な土工事をしたようには見えず、自然の地形を利用した砦であったのだろう。しかし、山中とはいえ、こんなに高いところに砦を築いた意味が良く判らない。

按ずるに武田の時代、土岐の山家に番手を置かれたる事、甲陽軍鑑に見ゆ。本城山と云うは、その頃の砦にて守衛番手の武士、この里に居住なるべし。三浦右馬介も山中の番手衆と見ゆ。海野氏の家譜に、遠江樽井山の砦、安部大蔵元真、押し寄せ、乗っ捕り籠りたるに、武田方の三浦右馬之介、主将となり、樽井山へ寄せ、合戦ありしが、三浦が勢(ぜい)、数多討たれて、引き退くと云う。天正五年(1577)の事となん、云々。
※ 番手(ばんて)- 城に在番して、防備にあたる武士。城番。

さすがに、山頂の砦に居住は出来なかったとみえ、番手たちは、本城山から最も近い徳山に居住していたようだ。
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