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明治の失踪人捜索


(庭に生えた茸)

午後、金谷宿大学の講座「古文書に親しむ」の第4回目に出席した。今日の「歳代記」の中で注目した部分は、失踪人の捜索の件である。解読後、書き下した文は次の通りである。

明治十六年一月三十一日、金谷宿上小路四百七番地、新間米吉と申す者、三十一日午前七時頃、上本町鈴木八次郎に雇われ、駿河国志太郡嶋田在相賀村へ使いに行かけ、牛尾村農業人に大井川渡川あるいは筏越しの様子を相尋ね、それより牛尾村前大井川端にて駿河方筏を呼ぶ。
筏乗り答えて駿河方より筏を漕ぎ、遠江方へ漕付けるうちに、右米吉牛尾村の山へ駆け込み候。様子を見請ける上、大声に呼わり候えども一向に分からず、筏乗り大いに立腹して駿河方へ戻る。
その後正午に至りても帰宅致さず、午後三時に相成り候いても戻らず、午後六時頃にも戻らずにつき、上小路中寄り合い候。その夜より手分にて牛尾村へ聞き合いに行く者もあり、宿中の籔または山を呼わり呼わり尋ねる者もあり、一向に分からず。
翌二月一日は利生寺門前、上本町、本町、上記峯村、右町村にて相尋ね候へども分らずおり候。
戸長役場へ出願に及び、明ける三日、宿中一同にて、泡ヶ嶽へ一組、大代山御林跡へ一組、牛尾山へ一組、それより駿河方千葉山あるいは相賀山、高山、その外大井川通牛尾村前より下の川まで、船に乗込みあるいは川岸を尋ね候えども相分らず。
翌四日は二百五十人ばかりにて、鎌塚山、高雄山、持渕山、それより横山、氏神様山、長者原、管沢、洞善院山まで、米吉米吉と呼び歩き行く声は、夕方にはことに淋しく聞覚え、老若男女、夜分は門口へ出るもこわがり候。
翌五日より八日頃まで村中ばかりにて相尋ね候えども、終に相分り申さず候。
その後、大井川に流れ死に候なり。


一人の失踪者が出て、金谷宿をあげて捜索をしている様子が細かに記載されている。当時も今と変わらず、人が一人居なくなるということは大事件だったことがわかる。

読み下しを終えて、一人の受講者から「向こう岸に渡る筏を呼んでおいて、どうして山へ駆け込んだのだろう」とこの事件への疑問が述べられた。それを皮切りにボツボツと受講者の意見が出た。「お金を預かっていて逃げようとしたのだろう」「渡し賃が惜しくなって川を渡ろうとして流されたのではないか」「筏乗りと渡し賃か何かでもめて川へ落とされたのではないか」などと。もちろん答えはない。後日になって川下で土左衛門となって見つかったから、あやまって川へ落ちたのだろうということで処理されたはずである。

疑問が残るのは、山へ駆け込んで、川で溺死したという矛盾である。自分はこんなストーリーを考えた。筏を呼んでから渡し賃を払うのが惜しくなった。渡し賃は駄賃から負担しなければならない。そこで山へ駆け込んで、筏乗りが怒って帰ってしまうのを待ち、その後、徒歩で川を渡ろうとして流された。この辺りが真実に近いのではなかろうか。もっと下へ行けば有料の橋も架かっていたのに、それも使わなかったほどだから。大井川の川越しのあった時代にも、徒歩で渡ろうとして流される事故がよくあったと聞く。
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