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島田大祭-鹿島踊り

(鹿島踊り-三番叟)

御神輿の行列に続いて鹿島踊りがやって来た。静岡県の無形民俗文化財に指定されている。

本通りは第一街(1丁目)から第七街(7丁目)まである。各街が島田大祭でそれぞれの出し物や役割を分担して執り行うしきたりが確立している。第一街から第五街はそれぞれに屋台を出して、子供たちが屋台上で踊り、大人たちは路上で地踊りを披露する。第六街は「鹿島踊り」を出し、第7街が大名行列を出す。

 第六街の出し物である「鹿島踊り」は300年前の延宝年間(1673~1680)に島田宿を中心に疫病が蔓延したとき、宿場の住民たちが疫病退散を祈願して大井神社に春日神社を建て、鹿島踊りを披露したのが始まりである。

鹿島踊りの由来を見て、不思議に思うことがある。どうして大井神社にわざわざ春日神社を呼び寄せたのだろう。しかも奉納した踊りが鹿島踊りというからにはルーツは明らかに茨城県の鹿島神宮である。大井神社-春日神社-鹿島神社、この三社の関係はどうなっているのか。

300年前の宿住民たちの気持になって考えてみよう。疫病の蔓延に直面して宿住民が寄り合って話した。「ここは一つ神頼みしかあるまい。」「大井の神様は水神様で、水難や五穀豊穣には強いけれども疫病にはどうであろう。」「上方から来た旅の人が疫病退散には何と言っても春日神社だと話していた。」「それなら春日の神様を勧請して祀ってはどうか。」「奉納する踊りについては、江戸から西の街道筋で鹿島踊りというのが流行っていて、各地の神社で奉納されているらしい。」「我々もその鹿島踊りを教えてもらって来てはどうだろう。」その位な話合いがあって、三社混成の無節操な出し物が出来てしまったとは考えられないだろうか。


(鹿島踊り-お鏡)



(鹿島踊り-鼓)



(鹿島踊り-ささら)

現在、鹿島踊りの踊り手は子供たちである。先頭に三番叟が二人、次にお鏡が二人、鼓とささらが6人づつと続いていく。先頭の「三番叟」は白黒の横縞に日の丸の烏帽子を冠り、右手に鈴、左手に扇を持っている。最も年かさで中学か高校生の男子である。かつては町内の後継ぎで長男しか勤められなかったという。次のお鏡以降は頭に赤いふわりとした帽子を被っている。お鏡は中学生位であろうか。右手に鈴、左に先端に鏡に模した円盤の付いた御幣を担いでいる。「鼓」は小学生高学年位、作り物の鼓を持って打つマネをしながら踊る。最後はそれより下で、ささらを持って踊る。ささらもすり合わると、、シャッ、シャッと音が出るが、ここではマネだけである。それぞれの役割で踊りや所作が違う。良く見るとその辺りは男女混成のようだ。

後から続く楽隊の太鼓と笛の音に合わせて、動と静を交互にまじえた優雅な踊りである。先頭の三番叟が「ヨーイヨーイソレサ、ハッ、サッ、ハッ、サノサ」と発声すると、鼓とささらがそれに和して「ヨーイ、ヨーイ、ソーンライサノサ」と踊りながら続く。
ハッ、サッ、ハッでは両手を左右に広げたり、片足を上げたりして瞬間静止する。全体に後ろ向きに少しづつ進んでいく。
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