河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

726‐ジョン・アダムズ フラワリング・ツリー 花咲く木 日本初演 大友直人 東響 2008.12.6

2008-12-07 12:19:39 | コンサート・オペラ

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ジョン・アダムズの新作オペラの日本初演に行ってきました。
演奏に先立って演出家のお話を聞けるということで少々早めに行きました。

2008年12月6日(土)
サントリー・ホール
5:15pm
ピーター・セラーズ × 岡部真一郎
プレ・コンサートトーク

6:00pm
ジョン・アダムズ  オペラ「フラワリング・ツリー*花咲く木」
             全2幕、セミ・ステージ形式、原語上演、字幕つき
             日本初演

指揮 大友直人
演出 ピーター・セラーズ

クムダ ジェシカ・リヴェラ(S)
王子 ラッセル・トーマス(T)
語り部 ジョナサン・レマル(BsBr)
舞踊 ルシア・シディ
   エコ・スプリヤント
   アストリ・クスマ・ワルダニ

合唱 東響コーラス
   ソプラノ、49人
   アルト、47人
   テノール、36人
   バス、44人

2006年のモーツァルト没後250年にウィーンで初演。プロダクションのピーター・セラーズとの共同作業。
ストーリーは、
「貧しい少女クムダは花咲く木に変身できる。これを見た王子は彼女を嫁にする。彼女が目の前で木になるとき思いを遂げる。
王子の妹王女は、彼女に嫉妬し、何もしないと空約束し彼女に木になってもらう。その木を傷つけられた為彼女は元に戻れなくなる。
彼女がどこへ行ったのかわからない王子は失意の毎日。路頭をさまよう。
王女の姉に助けられた彼女は、疲れ果てた王子をそれと知らず救う。
そこでお互いわかり、王子は傷の手当てをし、彼女はもとの姿に戻る。」

といった感じ。オペラとはいえ舞台に上がるのは6人。そのうち歌うのは3人のみ。あとの3人は舞踊。そして後方に合唱。

舞台は、セミ・ステージとなっており、普段オーケストラが演奏するレベルには、通常通りオーケストラがいる。光は落とす。
オーケストラの後ろに高さ1メール強と思われる台を置きその上で歌、演技が行われる。ここがパフォーマンスの注目の的になるレベル。
このレベルには語り部が一人(バスバリトン)、王子(テノール)、クムダ(ソプラノ)。
それに舞踊が3人。女性2人。男性1名。ストーリーの展開にあわせてその意味合いを振りつけて踊る。微妙なジャワ踊り。

170人あまりの合唱はいわゆるP席に陣取る。後方レベルということになる。
サントリーホールにはオケピットはないのでここでやるとこうゆうふうになる。

オーケストラ、合唱はともに黒で固めた衣装で統一感がある。光る演技の台との対比がさらに際立つ。

ジョン・アダムズの作風は、最初ミニマル・ミュージックにはまり、実験音楽などを経て、ワーグナーのカミタソに行きついたらしい。これだけで何となくわかる。
冒頭、スティーブ・ライヒのミニマル風な高弦を伴奏に息の長いフレーズのメロディーが流れる。結局、ほぼすべてこんな感じだ。細かい刻みと骨太のオステナート風な旋律。
リボーンしたロマン主義音楽はかけらだけで、わりととっつきにくい節が続く。
4度の「変身」の部分で音楽は高まるが、プログラムの解説は紛らわしいが4度目の変身は木への変身ではなく元に戻る回帰の変身であろう。音楽的にもここがクライマックス。
第1幕に比べ、第2幕の音楽の動きは際立っており、ストーリー展開に味付けした音楽はオペラとしては佳作であるといえる。
モーツァルト没後250年のために書いたとはいえ、モーツァルトとの連関は「魔笛」にその軽さ、単純さ、にあるらしい。
それよりもこの多国籍、無国籍音楽の広がりが面白い。
ストーリーは南インド民話、ソリストの歌は語り部も含め英語、ソリスト以外の役どころはスペイン語の合唱で。王子役は大柄な黒人。
舞踊は3名ともインドネシアのジャワ舞踊の達人。振り付けも同時に担当。
南インド、インドネシアに行ったことがない作曲家アダムスはアメリカ人で、オーケストラ、指揮者ともに日本人。
統一感がないというよりも全て許容してしまうような作品ということだろう。こうゆう作品はシチュエーションをワーグナー並みに変えてもいろいろと面白いだろうし、演出の読み替えの可能性も大きいと思う。
その意味で、セラーズの出番も大いにあるということなのだろう。
紛らわしい名前のピーター・セラーズであるが、現存する演出家。その風貌は、ヴァイオリンのナイジェル・ケネディそっくり、もうちょっと言うと映画フィフス・エレメントに出てくる悪役ゾーゲをやっているゲイリー・オールドマンに似てるなぁ。奇抜な頭と衣装であったが、しぐさは第三帝国の首謀者を真似している確信犯とこちらは勝手に思っているが。

第1幕の冒頭から音楽は、ミニマル風な伴奏にオステナート風な旋律、と書いたが、逆かもしれない。
ライヒなら、オステナート風な伴奏にミニマルな主旋律。といったところか。
フィリップ・グラスの方向に向かわなかったアダムズには彼なりの世界があるのだろう。

語り部がストーリー展開を歌で示す。字幕つきであるため、聴衆は容易に理解が可能。字幕の効用は測り知れない。
役どころとしては、語り部は無関係であるため、実質2人。娘クムダと王子。
語り部のあとクムダの長大な歌から始まる。調性の意味合いはなく、かといって12音階風な無調性ではなく、なにかしら底の浅い鍋、フライパンに水を入れ、その水が沸騰しているような音楽が延々と続く。
クムダが歌うとき、その内容に合わせ女性2名の舞踊が絡み合う。その後入れ替わりに歌う王子のときは男性1名の面白い舞踊。
第1幕では2回「変身」が見られる。見られるといっても舞踊は単に踊っているだけであるため、そのしぐさからわかるだけである。ここらあたり本格オペラにはかなわない。聴衆としてもイメージの世界を広げていく必要がある。
1回目の変身はデモンストレーション、2回目は結婚した後、王子が見たいといった変身。
音楽はこの変身で盛り上がる。波が来る、といったほうがミニマル的にはなんとなくわかりやすい。個人的にはこのての音楽には飽きない。
合唱は176人。ものすごい数だが、圧倒的なサウンドで、色合いが東響のやや硬質で黄色い色合い音色によく合う。溶け込むといった雰囲気はなく、それ単独で非常に明快でクリアなサウンドが爽快に、気持ち良く響く。曲想、ストーリーとベストマッチな箇所での盛り上がりなのかどうか少し疑問なところもあるが、饗宴という意味では華麗で心地よい。
黒衣装で統一された合唱は、プロンプター代りに左右2台ずつ置かれたモニターを見ながら歌うため、わずらわしい譜めくりのスコアを聴衆は見なくて済む。余計な動きを排した演出はセミ・ステージものでもこれだけ可能になるわけで、セラーズの至れり尽くせりの演出は、自分がアダムスになったような錯覚、ある部分勘違い、許容されてもいいのかもしれない。
モニターであるが、バレンボイム&クプファーの2回目のリング・プロダクションでは、この種のモニターは露骨に聴衆にも見えるような位置にあった。プロンプターがいれるような場所がないようなプロダクション、手法はひとつ前に作られたものだ。(本来出てこないものは隠すべき、というのは成り立たなくなっている)
第1幕63分


第2幕はオペラとしては盛り上がらなければならない。ストーリー展開としてもそうあるべき。
第1幕で2回の変身を見せたクムダは、ここにきて王子の妹王女に言われ変身をしてみせるが、その時点で傷つけられてしまったため後戻りができなくなってしまった。変身も3回目まで来ると、この音楽にライトモチーフを感じることはできないが、音楽の膨らみでその部分を理解できる。
そのあとの展開だが、第1幕では舞踊は踊り手に振り付けられていたのだが、ここにきて、歌い手と舞踊がどうも同じことをしはじめた。つまり、踊り手と同じような動きを歌い手がする。だから二人で一つの意味合いの振り付けとなる。踊る部分はソリストにはできないが、第2幕のストーリーは動きの少ないもので、同時に動き合うのも容易な箇所が多い。
同じことを、一人の役を、二人でする。というのはどうなのか。
一瞬、分身、影法師のように見える個所もあり非常に興味深かった。

クムダを失った失意でボロボロの王子と、傷ついたフラワリング・ツリーから戻れないクムダの出会いは、オペラなら劇的に表現されるはずだが、ここはあくまでも淡々と進行し、最終局面で第4回目の変身は、元に戻る変身でハッピーエンドとなるが、音楽はなぜかブラスの強烈な不協和音のトーンが響き渡り、その耳障りな不協和音のみ解決されはしたが、落ち着かないハーモニーのさらなるブラス強奏でエンディングとなる。
第2幕57分。

音楽にひらめきはあったのか。
あったと思う。
聴き手をつかんで離さないのは、オペラという目に見えるもののせいだけではなく、音だけで十分ひきつけるものを持っていると感ずる。
演技はむしろイメージであり、その意味ではパルジファルの舞台がイメージという補助的要素だけでしか意味合いを持たない舞台でも成り立つのと似ている。(今時そんなパルはないが。)
響きは魅力的であり、さらにストーリーは単純であり寄り添う音楽を容易に把握できる。その意味では作曲家アダムズがいう「魔笛」との類似性を主張するのは正しいのかもしれない。

個人的な理由で大友の棒はここ10年ほど聴いていなかったのだが、このオペラの日本初演のイベントに抗することができずに聴いてしまった部分もあるが、結果的には大正解。
東響を振る大友の棒は明快で、やや、下に大振りで堀が深いが、今日のような暗いオーケストラ位置では棒を持った方がいいのではないか、と思われる局面もあったが、おしなべて立派で、スコアの把握が音楽への共感からきているものであり十分納得できる音楽づくりであったと感ずる。(比較できるものをもっていないが)
オーケストラは各トップの技が正確。オーケストラが目立たない照明演出であるためあまりわからないが素晴らしい演奏が自然に、まるで何回も演奏してきているかのように自然に、なされた。

オベイションが10分以上続いたが、それは正しいものだ。
それにしても、レディーファーストしないセラーズ。決して傲慢には見えないし、実際のところ日本人風にぺこぺこしたりして愛嬌があったりするが、レディーファーストしないというよりも、なんだか、あれって自分がアダムズで、自分の曲に使った駒たちを動かしている、といった信念が、錯覚があのような態度になって自然に出てくるんだねぇ。きっと。
気持はわからなくはないが、今日はプレ・コンサートトークでもかなりエキサイトして熱弁を30分以上奮っていたし、なにか興奮状態だったのかもしれない。今はいい。
この曲が、このプロダクションが、セラーズのプロダクションが(新たなものも含め)、今後どれだけ多くの劇場でレパートリー化されるのか、日本は作曲後かなり早めの上陸であったわけだが、評価の方向性を決めるひとつの演奏であったことは確実。
今は、明日もう一度上演される、といわれたら行くだろう。
おわり


 


725‐ ゲルギエフ ロンドン交響楽団 観念のプロコフィエフ・サイクル 2008.12.3

2008-12-04 19:57:42 | コンサート

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ゲルギエフ&ロンドン交響楽団という最高の組み合わせで来日したのに、やる曲が、プロコフィエフ・サイクル(プロコフィエフ・チクルス)ときたものだから、聴くほうもきてる。。

天皇陛下ご臨席の122日公演もニュース映像で見る限りガラガラでお寒い感じだったが、河童は最初からあてこんで(ひねくれて)、一番人のはいらなそうな日を事前に選んでいた。

 

2008123() 7:00pm サントリーホール


《オール・プロコフィエフ・プログラム》

交響曲第2

チェロ協奏曲第2

 チェロ、タチアナ・ヴァシリエヴァ

交響曲第7

(アンコール)
ロメオとジュリエット』組曲第1op.64bisから 「タイボルトの死」


 

ワレリー・ゲルギエフ 指揮  ロンドン交響楽団

 

なんというか、早い話、アンコール以外生演奏に接するのはもしかして初めてかもしれない。

プロコフィエフの交響曲、協奏曲、特に交響曲は1番のクラシカル・シンフォニーと5番以外は極めて不人気。聴いても栄養にもなにもならない感じだが、ゲルギエフは完全にはまっているらしい。本人に言わすと、まだ奥が深いとのこと。たしかにオペラなどは全部振りつくしているしその傾倒ぶりには目を瞠るものがあるのも事実。

協奏曲はそれなりにたまに聴いている。ピアノ協奏曲はポピュラーな第3番よりわけのわからない第2番の方が結果的に魅力的だったりする。今日はチェロ協奏曲第2番ということで完全に初ものだ。。

客の入りは思ったよりよくだいたい67割程度。65パーセント満席、ワインヤードは後方と2階センター前列が埋まっているぐらいで、横、奥ともに空(カラ)。。

人気のあるゲルギエフであるがもっと空席だらけのオペラを上野で体験したことがある。そのときは、一番高い席と一番安い席が埋め尽くされ、それ以外の席は空だった。今日も現象としては同じ。つまるところ日本人(聴衆のことではなくチケットを売る側)の発想としては同じ。

曲の並びが頭でっかちになっているが、有名度からいってしかたのないところか。かといって第7番で終わるとは思えない。アンコールでロメジュリあたりをやってぶっ飛ばしてくれないと、聴いているほうも消化不良になるのは確実だし。。

長い演奏会だった。7時からはじまって終わったのが940分。

前半に長いのを二つ入れているので、休憩後の後半開始が850分という異例のもの。普通この時間だとN響定期あたりだと演奏会そのものが終わっていて帰路につく頃だ。

タイミングとしては、前半の交響曲第2番が37分。協奏曲が38分。

人の入りが悪く開始が710分ぐらいであったので、また協奏曲の段取りをしたりしないといけないので、結局前半終了が8時半。

20分の休憩後、第7番が30分。それにアンコール。跳ねたのが940分。

まずロンドン交響楽団のサウンドであるが、デイヴィット・パイヤットの細みで切れ味鋭いホルン・サウンドのことに言及するに及ばずこのオーケストラのやや硬めで明快かつクリアな音色は、一耳瞭然。

その昔、チェリビダッケがこのオーケストラを多いに振っていたことがあり同組み合わせで日本にも来たことがあるが、あのコンビネーションはやはりなにかの間違いであったのかもしれない。あのときも空席が多かったなぁ。


それで、

このオーケストラには黒人はいないと思うのだが、それはそれとして、団員がみんな自由な雰囲気で束縛されずに音楽を楽しんでいる姿が、どうしても英国の気品とオーバーラップし、ハイグレイドな自由気質が自然に醸し出されており、悲愴感が全くなく、重くならない音が自由に飛び回る。

腕達者な連中だらけでトップクラスのオーケストラ、気さくな空気は自由な雰囲気をホールに伝播する。非常に好ましい。こうゆうオケがやるときはやるんだ。


交響曲第2番は、プロコフィエフの成長プロセスの脳みそを覗いているような感じで、第1番クラシカルのあとの第2番とはとても思えない。脳内実験工房の披瀝のようなものだ。これは必要な作業に違いなかったのだろうが開示する必要があったのだろうか。

2楽章形式で、ソナタ形式の第1楽章、変奏曲+第1幕の回想で終わる第2楽章。

これを当日のプログラム・ノートではベートーヴェンのピアノソナタ第32番の作品111と比して書いてあるが、これは大げさ、うがちすぎ、美化しすぎ。

たしかに形式はそうなのかもしれないが、その前に音楽がこなれておらず未熟すぎる。ここらあたりから論じないといけないと思う。プロコフィエフ特有の粒立ちのいい立ち上がりのいいリズムが曲想全般を支配するが、なにもかもが中途半端で(成長プロセスであるからその時点では最善)、なにをどのように表現したいのかよくわからない。この2楽章形式だって、ベートーヴェンが形式を破壊し、あらたに創造したプロセスの結果であるのに対し、プロコフィエフの2番を同じ土俵で論じても話にならないのではないか。

プロコフィエフの交響曲第2番は素材があるだけである。無防備、無邪気に羅列された素材が荒唐無稽に動き回る。ここから何をみつければよいのか。

たしかに、この素材だけで2楽章合わせ37分も何故必要だったのかという興味ある疑問もないわけではない。響きの世界に埋没するというてもある。それはこちらとしても得意だが、曲の形式感を問うのはあまりに早すぎる。。


前半2曲目はチェロ協奏曲第2番、別名、交響的協奏曲。

これはいわゆるコンツェルトで3楽章形式。第2楽章がかなり膨らんだ音楽であるが1曲目のあとだと比較的救われる。

チェロが高難度技を要求される曲で、また恐ろしいことに、プロコフィエフはチェロ独奏に口を出さない、というか音を出さない。つまりチェロの独奏部分は非常に良く聴こえるように出来ている。いいところから悪いところまで全部聴こえる。昔の協奏曲みたいに中声部域の楽器の協奏曲にありがちな、「埋もれてしまう」ようなところがない曲だ。プロコフィエフも難儀だなぁ。。


ロストロを想定して書いているので彼しか弾けないような難曲だと思われる。特に自由に膨らんだ第2楽章は、かなり精根尽き果てるような荒技が多そうだが、タチアナさんは平然と通り過ぎる。それだけでなく、プロコフィエフらしからぬウェットな表情まで魅せてくれる音楽はそんなに魅力的でない音楽であることを忘れさせてくれる。

オーケストラの粒立ちの良さはこの作曲家の特徴を強調させているし、オーケストラの音がソロを邪魔しないオタマジャクシの並びには感心するしかないのだが、オーケストラの対向配置もなにかしらいい作用があるのかもしれない。

左奥に陣取ったコントラバスはどよーんとした音ではなくクリアなサウンド。その前方に第1ヴァイオリンが位置するが、このバランス関係が音色の構築をさらに明確にしているようだ。

そういう意味では交響曲第2番の響きも、もしかすると従来の演奏と響きが少し異なっていたのかもしれない。例えばコントラバスとチューバが旋律をあわせるフレーズ、向かって左奥のコントラバス群と右に位置したチューバは15メートルぐらいもっと?離れているかもしれないが、個別に出した音が離れた位置で微妙に融和していく様はオーケストラ曲を聴く醍醐味である。

響きの点でプロコフィエフに改善を試みているゲルギエフ。そう言う意味では全般にわたりやはりアクティヴな姿勢でこちらも聴かなければプロコフィエフも浮かばれない。。

タチアナさんのチェロには大拍手。素晴らしい、すごい。

850分頃からはじまった交響曲第7番。プロコフィエフの最後の曲。

ここでもプログラム・ノートには変なことが書いてある。遺作で悪いコンディションのなかで書かれたものであり懐古に走るのも多少我慢してくれ、とまでは書いてないが、いたしかたない部分もあるのだと。

歴史的前後関係を思索せず、垂直的にこの曲を聴けば、やはり、その価値はあるべき所に納まっているのではないか。それこそ、いたしかたがない。

この4楽章形式の副題は青春。これ以上ミスマッチなタイトルはないだろう。

若者に捧げる曲としながら、平易簡素さよりも、音楽の持つしなやかさに耳がいってしまう。前半の第2番の交響曲とは比べ物にならない表現力である。しかし、若者向け、懐古趣味、それが何故ソナタ形式の構築物にならなければいけないのか。それは交響曲だからだ。と言われてしまいそうだが、つまり破壊的創造がなかったわけであるが、表現がしなやかになったのに今度は形式を求め、うまくいかなかったチグハグな音楽という印象が強い。

 

プロコフィエフの音楽ではバレエ音楽がいい。副次的な要素の強い音楽ではあるのだが、よく流れうたう曲想が連続し、飽きない。

今回の来日のゲルギエフのプログラムにも「ロメオとジュリエット」がある。いい演奏が展開されることだろう。今日のアンコールはロメジュリからの断片であるが、鋭角的なロンドン交響楽団のサウンドにマッチした表現であり、短いながら全曲の輪郭が想像できるようなすごさだった。

ゲルギエフはプログラムにもインタビューが載っているが、かなりプロコフィエフにはまっているのだろう。まだまだ奥が深いことを強調している。しかし、今日の空席を見てもわかるように、この演奏会に来なければ話にならないわけで、それには底辺を広げ基盤を確立することが必要なわけであるが、演奏会ではなくその前にやることがある。交響曲全集を作っているのでそれはいいことだ。ただ、それだけではなかなか難しそうだ。

逆にこのように他国で交響曲を全部演奏してしまうということがのちにエポックメイク的なメルクマールになるかもしれない。国内のオケがこれをお手本にすればある程度の広がりを持つことになるかもしれない。


この日は素晴らしい腕のオーケストラによる演奏であったが、企画が企画だけに、今一つ、とはいっても自分で選択した曲の演奏会だったのだから、自業自得?

プロコフィエフの交響曲の流れ、推移はある程度理解できたと思う。

でもはまりそう。。

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724- スクリャービン 交響曲第3番 リッカルド・ムーティ フィラデルフィア管弦楽団 1984.2.22

2008-12-03 00:10:00 | コンサート

 今までに、二つや三つ、五つや六つ、決して忘れられない演奏というものがある。
この日の演奏も忘れ難いもので、ずっと今の今になっても鮮明に覚えているコンサートだ。
当時の音楽監督リッカルド・ムーティが手兵フィラデルフィア管弦楽団とともにニューヨークで行ったサブスクリプション・コンサートから。


1984年2月22日(水) 8:00pm エイヴリー・フィッシャー・ホール

グレイト・パフォーマー・シリーズD
第84シーズン(1983-1984シーズン)

ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲
 ヴァイオリン、アイザック・スターン

スクリャービン/交響曲第3番

リッカルド・ムーティ 指揮  フィラデルフィア管弦楽団

以下の文面は当時書いたノートを書き写したもの。(ほぼ)

****
彼はかっこいいのを通り越してスポーティでさえある。
彼の指揮そのものが我々に生理的快感をもたらす。
このような経験は久しぶりである。
まるで長嶋が後楽園で何の苦もなくゴロをさばいているのを唖然としながら観ている我ら観客といった感じ。
彼のように全く絵になる指揮者にはフィラデルフィア管こそふさわしい。
もう頭の髪の毛一本から足の指の爪まで全てそれらは彼の意識下にあり、我ら聴衆はただ唖然としながら眺めているだけでよい。
そして彼の手足と同じように素晴らしかったスクリャービン。
これはほんとまれにみる素晴らしいスクリャービンではなかったか!
そもそもスクリャービンの作品を生で聴けること自体貴重であるわけだが、それがこのようにもうほとんど完璧ともいえる姿で再現されるとは。
彼の指揮はたしかに大げさかもしれないが、音楽がそれから遊離することなく、まるで彼の手というよりも彼の体全体から音楽が鳴ってくるといった雰囲気。
本当にあの音楽はいったい何であったのだろう?
スクリャービン独特の弦の小刻みに震える音や金管の強奏。そしてときとしてあらわれる木管による美しいハーモニー。
テンポはほとんど一小節ずつ変化し、うなるような音楽としか言いようがない。
本当にあの音楽はいったい何であったのだろうか?!
それに、この曲を完全に自分のものとして、まるでオペラでも振っているようにこなすムーティの姿。
これは三者が美しくマッチングした姿ではなかったか。
最後の打撃音の間の二つの休止がホールを揺るがすなんてことは、実際そこにいる人でなければわからない。本当、なんて、素晴らしくアンビリーヴァブル・スクリャービン。

さて、一曲目のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。
スターンは出だし、音が少々上ずっていて、一聴、今回は不調かなとも思ったりしたが、第1楽章のカデンツァあたりから次第に調子が出てきて、第2楽章の中間部ではまさにベートーヴェンの静かで清らかな音がホール全体に響きはじめた。
彼の音は高音が研ぎ澄まされたようであり、一分の狂いもなくまっすぐに伸びきる。
これが金属音ではなく柔らかい音なもんだから本当、気持ちがいい。彼の体形からは考えもつかないような音が発せられる。
スターンはベートーヴェンに沈み込んでいったようであり、深みにはまっていく様子が聴衆にベートーヴェンに対する共感を呼ぶ。
ムーティも静かな棒であり、この姿から後半のプログラムのダイナミックなものを思い浮かべるのはちょっと難しいが、彼はベートーヴェンに対しても素晴らしい解釈を示しており、ときに真摯とさえ思えるときもある。オペラ指揮者としての素晴らしさを感じる。

それにしてもここまでかっこよく棒を振ってしまうと、日本流の評論はなにか不要なものに思えてくる。まして音楽がともなって素晴らしいだけに文句のつけようもない。
これはオーケストラがフィラデルフィア管ということもあるが、彼のような指揮者には、そもそもへたなオーケストラは不要なのだ。
オーケストラのほうから近づいてくる。
おわり

といった駄文であったわけだが、この文章からは今でも忘れ難い演奏、なんて雰囲気はあまり感じられないのだが、その後、いろいろな局面で、演奏中のいろいろなことを次々と思いだすのだ。今までもこのブログでも書いてきた。
フィラデルフィア管の内向きに集中するサウンド。なにか中心点がステージの中央にあるかのような音のコンセントレイト。
スクリャービンの交響曲第3番は短い序奏をもった長大な変奏曲であると思うのだが、きらびやかにめくるめくサウンド。スピードの伸縮の魅力だけにとどまらず、音色変化によるAM波的上下の伸縮、膨らみの圧倒的な技。それは全てムーティの技と言い換えてもいい。フィラデルフィア管の表現力の凄さ。筆舌に尽くしがい演奏であったのだ。
ムーティはこの交響曲が十八番であり、フィラデルフィア管のみにとどまらず、ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、ニューヨーク・フィル、と演奏しているし、おそらく他にも数多のオーケストラと演奏しているに違いない。ただ、想像するに2流のオーケストラとは演奏していないのではないか。圧倒的な表現力を持った曲だけに、演奏可能な、まずは基盤が整っていないと話にならない。と彼が思っているかどうか知らないが、たぶんそうだ。
最後の打撃音に向かう直前のロングなハーモニーは、ウィンドがキラキラと宇宙の星の輝きを思わせる中、ブラスが強奏し、そして一度ピアニシモまで落とし、そのままノーブレスでフォルテッシモまでもっていき、大きな空白を2回作り、圧倒的な静寂がホールを揺らしながら、強烈な2回の打撃音と最終音が思いっきり伸ばされ、魂が震えながら永遠の響きが消え去る。

それで、演奏会二日後の2月24日にニューヨーク・タイムズに評が載った。
ムーティはこの曲は十八番なのだが、フィラデルフィア管を少し強引に引っ張りすぎたかもしれない。(ここらあたりは見解の相違ということになるのだが。)
それに前半のスターンのヴァイオリンを忘れてはいけない。


723- 素直な指揮とピアノだったアシュケナージ、フィルハーモニア管 1984.2.19

2008-12-01 00:10:00 | 音楽

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芸術の秋冬が一服ついてますので1983-1984シーズンの聴いたコンサートのことについて書いてます。

1984219()8:00pm

エイヴリー・フィッシャー・ホール

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グレイト・パフォーマー・シリーズC

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モーツァルト/交響曲第36番 リンツ

モーツァルト/ピアノ協奏曲第20

 ピアノ、ウラディミール・アシュケナージ

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ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲

ドビュッシー/海

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ウラディミール・アシュケナージ指揮

フィルハーモニア管弦楽団

前半と後半が完全に分離したプログラム。

前半は自分の弾き振りもいれた完全モーツアルト。

後半はアシュケナージにあうかどうか、完全ドビュッシー。

それで、演奏会のほうはどうだったのだろう。

アシュケナージはこの前聴いたズッカーマンとはだいぶ異なり指揮がこなれている。また、ただそれだけではなく、それ以上のものをもっている。

アシュケナージは背がそんなに高くなく、というよりもむしろ低く、そして少し胴長のため、あまりかっこがいいとはいえない。

さらにピアノを弾きながら指揮するときが多いせいか、普通の曲を指揮する場合にも両手を最初から最後まで上にあげっぱなしである。あれだと疲れるだろうなぁ。

あの胴長でさらに両手を上にあげて指揮されると足の長さが(短さが)さらに強調されてしまう。

しかし、そんな見た目とは異なり音楽は良かった。モーツァルトもドビュッシーも良かった。

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モーツァルトのシンフォニーはなによりもテンポの設定が良く、4楽章全部納得のいく速度であった。

ピアノ・コンツェルトはやっぱりアシュケナージのピアノの素晴らしさを認識したし、なによりもオーケストラとの呼吸が良く、フレーズの微妙な受け渡しが非常に滑らかで不自然さがまるでない。これは当然、彼が棒を振りながら弾いていることにも起因していると思うし、また彼は指揮もまたピアノと同じぐらい大事な仕事だと思っているに違いない。

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それはそうと、今日の演奏会は聴く前からどうもフランスのオーケストラの演奏会のような気がしていたが、それはこの後半のプログラムのせいであると思う。

このプログラム・ビルディングはまるでフランスのオーケストラの海外公演のようであり、これはとりもなおさずアシュケナージ自身の好みを反映していると思う。フィルハーモニア管弦楽団については日本にいたとき、たしかブルゴスの指揮で聴いたと思うが、音のイメージはやっぱりなんとなくその時と同じでレコードから出てくる音と同じ!ような錯覚におそわれる。(フィルハーモニア管のレコードを聴きすぎているのだろうか?)

「牧神」にしろ「海」にしろ、指揮者が余裕から棒を振っており、まるで彼は最初から指揮者のようであった。

この「牧神」を聴いているとふとフランス国立管弦楽団の霧のような深い静けさが目に浮かぶのは何故だろう。そして「海」の第2楽章の海のようなざわめきもなんとなく写実的で迫力がある。

アシュケナージはむやみに金管を強奏させることなく、実に丹念に音楽を作っている様子であり、それが理にかなっている方向に進んでいると思う。いや部分的なものだけでなく、彼は全体的な雰囲気を作っていく上にもやはり指揮者である。

といった感じ。

二日後の21()のニューヨーク・タイムズに評が載った。

ニューヨークでは今回は二回公演であったが、19日は初日の方。

評は概ね好評。というか悪いことを一つも書いていない。

おわり

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