河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2463- マ・メール・ロワ、錯乱の論理、幻想、井上、日フィル、2017.12.8

2017-12-08 23:13:17 | コンサート

2017年12月8日(金) 7:00pm サントリー

ラヴェル マ・メール・ロワ、組曲  16′

八村義夫 錯乱の論理Op.12  9′
 ピアノ、渡邉康雄

Int

ベルリオーズ 幻想交響曲  16-6-15-5-9′

井上道義 指揮 日本フィルハーモニー交響楽団


一曲目のマザー・グース。井上は指揮台を使わずフラットな位置での棒。次の曲でピアノが持ち込まれるのでそれにあまり時間を取られないための気遣いのような気もするが、細身ですらっとした指揮者ですし、台は無くともこれはこれでわるくも無い。棒を使わない指揮姿も板についている。
豊潤なデリカシーとでも言えばいいのか、周到で入念な物腰のピアニシモは美しい。ソフトで居心地の良いベースサウンド。高弦がさらさらと舞う。透明感がありラヴェルのきれいな音楽をこの上なく感じさせてくれる。極上の演奏。ゆっくりと味わう。

ピアノも指揮台もセットして、2曲目は錯乱の論理。初めて聴く。こういった出し物をたくさん聴けるようになったことは本当にうれしい。
短い作品だけれども、これ以上長くは出来ないのではないかと思えるような圧倒的凝縮度。
絞り出すようなブラスセクションの咆哮、あちこちにミラーが有りそうな鏡の迷路。極限の点を響かせるピアノ。エキスのみの音楽。やがてピアノはやみ、オーケストラがクールダウンする中、ふさぎこんだ渡邉康雄、終えてそれを起こす井上道義。
なんだかわからないが圧巻。究極の努力作のように見えていながらインスピレーションによる一気書きのようにも聴こえてくる不思議。
タイトルの錯乱の論理は花田清輝の1947年の評論集にその由来があるよう。読んだことがないのでどのような内容なのかわからない。
八村義夫については、丘山万里子さんのWEBにある「錯乱の論理──作曲家・八村義夫論」に詳しい(長文ですね)。その中で彼の最初の作品、ピアノのためのインプロヴィゼーション。奏者がピアノにうつぶせになって消えゆく音を~、というくだりがあり、今日の渡邉、井上のうつぶせの画策はここらあたりに起因しているのかもしれないと、つまびらかではないがそこはかとなく感じるものがあった。
日本の作曲家のことは色々な方たちが掘り起こしていて作品の事や年代記も豊富で読めば発見することが沢山ある。またこうやって現実の生音で聴く楽しみは格別なものがある。あとは広がりなんだろうけど、昔と違い多くの作品が見えてきてはいるのだが、もう一つポピュラーな広がりが欲しい。どうすれば広がりが出来るのか、何も考えずに聴いていることは怠惰に近いと思うようになった。

井上が初めて日本のプロオーケストラ定期を指揮したのは1976年5月19日、日本フィルの第282回東京定期演奏会(東京文化会館)。メイン・プログラムはベルリオーズの幻想交響曲。そこから40年以上の時が過ぎた今、再び井上が日本フィルを相手に《幻想》を取り上げる。とのこと。
だからなのかどうか、後半は燕尾服に着替えて登場。指揮台もある。
1曲目のマザー・グースのパヴァーヌが戻って来たかのような繊細な音作り。ディテールを美しく描き切る。第1楽章後半の爆発も自然。井上の振り姿というのは誰の真似でもなくて独特。身体に巻きついてくるオーケストラの音。納得のパフォーマンスです。
そのあとも、指揮者の意図をオケが見事に表現、両者ウィンウィン。こういうのを聴ける聴衆にもお得感がある。
たまに不揃いになるのはリハと違う棒だからなのではないか、呼吸が合っていたからこその現象のような気もする。結果的にそうなっただけという。美演の枠の内側での出来事のように聞こえるので違和感はない。良き演奏の進み具合にはこういうところもあるものだ。
日フィルの柔らかさ繊細さと力感。両方堪能しました。きっちりとメリハリ効いた演奏会ですっきりとしました。ありがとうございました。
おわり


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