河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

ノイマン チェコ 1988

2006-10-09 14:30:56 | 音楽

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河童はずーっとあとになってノイマンをずいぶんと過小評価していたと反省するに至る。またチェコ・フィル自体についても同じだった。

1988年の頃は、いまだ健在な姿にいつでもどこでもこれから見ていくことができるから、特に深い関心はなかった。世のマーラー熱に釣られて浮かされていて、このときもそうだったのだろう。

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19881024()19:00

サントリー・ホール

サントリーホール2周年記念コンサート

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パヴェルカ/ヒエロニムス・ボッシュを讃えて

マーラー/交響曲第9

ヴァツラフ・ノイマン指揮チェコ・フィル

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1988年の来日時は22回公演。多い。昔からロシア・東欧の来日公演時の演奏回数はかなり多く大変だろうなあと思う反面、自国のふところもあたたまるだろうなぁ、とも感じたものだ。河童の胸算用。

当時平均1万円の入場料として2,500人収容のホールで、12,500万円興行。22回で55千万円興行。自国外諸経費がよくわからないが3割だとして38,500万円がはいる。

それを自国の物価に照らし合わせて、10倍とはいかないかもしれないが5倍ぐらいにはなるかもしれない。そうすると192500万円。ほかに放送料などがはいる。

オペラ公演などは3-6万円が相場だから、サッカーとかゴルフなどとは比べ物にならないぐらいペイするのではないか。動員聴衆の少なさを考えたら効率の良さは抜群ではないかと思う。文化使節的赤字の許容などといいながら東欧・ロシア系の演奏団体は昔からかなりの収益を上げていたのではないか。と思う。このへん河童は人間界のしくみにはあまり詳しくない。

それにしても今週から日本公演が始まるクラウディオ・アバド指揮ルツェルン祝祭管弦楽団の値付けはあまりにもクレイジーで常軌を逸している。サントリーホールのおごりとしか思えない。45,000-16,000円の幅である。16,000円というのはオケの真後ろの席である。

夏にスイスで古くから行われている音楽祭であるが、寄せ集めに近いオーケストラを秋口に日本に連れてきてマーラーの6番をやるからといって、オペラでもない、いたって普通の来日コンサートの値付けがこれだから常識からかけ離れている。夏だけ集まる著名演奏家を10月のこの時期、ヨーロッパの自国の秋冬シーズンが本格化する前に再度集めて演奏させて、ルツェルン・フェスティヴァル2006と冠をつける意味などないのではないか。夏のお祭りオケである。

河童はいままで幾度となく見ている。前の席がホワイトホールのように空席で、後ろの席が満員。そして休憩後の後半、前の席にシフトした客のせいで、休憩前とちょうど逆の現象がおこるのである。

高い席は空いているのに今日のチケットは売り切れ完売です。と言い張る売り子に好感を感じたりしたこともある。高い席なら空いてます、という問答の後のような答えをこれみよがしに責任者のほうにきこえるように謝っていた姿を思い出す。決して安くしては売らないのだ。クレイジーな値段に二の足を踏む人はたくさんおり、逆に音楽のことをとりたててどうのこうのいう人でなくても金満家であれば躊躇なくいく場合もある。その意味ではサントリーホールの値付けは全国に先駆けた悪しき例になっているし、文化的不毛化のパイロットでもある。今度のルツェルン、しめしめいまくいった、となるか、やはり勘違いでした、となるか。いつも終わってしまえば後の祭りであるため外部の観客からはどうでもよくなってしまう傾向にあるが、誰かトレースしてくださると実情がわかってこれからの値付けに役に立つと思うのだが。

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さて、1988年のノイマンとチェコ・フィルであるが、この組み合わせにも河童のトラウマがある。1970年代に同組み合わせで来日した折、新世界を聴いた。オケがうまくなかった。例によって来日時の公演回数の多さにへたっていたのか、弦が薄くこころもとなく、釣られるようにブラスのか細さも輪をかけてひどくミス連発であった。これだと我ら河童高校のブラバンのほうが格段に上だな。などとそのときは思ったりした。悪いコンディションが重なっていたのだろう。

しかし、ひとつだけ絶対に忘れられない印象。それは新世界第4楽章コーダのブラスによる最後の音。フォルテッシモからピアニッシモに収束し終わるあのユニゾンのピッチの素晴らしさ!!!!あれだけは絶対に忘れることができない。今でもありありと思い出すことができる。

その印象をひきづったままの1988年公演であったが、マーラーの9番は素晴らしかった。慟哭でもなければ深刻でもない、また変にうねらない。ただ淡々と進んでいくのである。音楽のあるがままに。チェコ・フィルの茶色の急須のようなやや透明なブラウンがかった色合いがステンドグラス風に心地よく響き、細めの線を保ったアンサンブルがインストゥルメント毎に同じ音色で、それぞれのウィンド、ブラスに絡まる。素晴らしい音楽のフラットな表現。弦楽合奏のそれぞれのストリング一つずつが丁寧に聴こえてくるようなそんな演奏であった。

ノイマンの指揮は素朴なものである。両肘を外側に張って前に押し出す一昔前のような風情である。カラヤンなどもそうであった。カラヤンは垂直に振る動作のとき棒に激しさを増すがノイマンはそんなこともなく飽くまでも自分を見つめた棒である。メータがテニスひじでノイマンが代役ででたときも真摯な棒が印象的であったが、マンハッタンの聴衆には今一つ印象が薄かったようだ。

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ノイマンはプラハの春からビロード革命までチェコ・フィルとともにあった。なんという運命の皮肉かと思う。結果的にこうなったのか、内に秘めた闘争心がそうさせたのか、それとも本意だったのか、人間選べるものは一つしかなかった。一番大事なことを選んだのかもしれない。彼がチェコ・フィルと作り出したサウンドと歴史は忘れられない事実となったことにかわりはない。自由化されてから自国でわが祖国を振ったクーべリックとは明確に異なる事実のみ残った。誰がいいわるいということではない。それぞれの歴史があったということだ。

その後、ノイマンはチェコ・フィルと関係は続き、Canyonにいれた数々の名録音による美しいサウンド、特に再録されたマーラー全集は惜しくも全集にはならなかったが、両者の長かった時代の良いところを余すことなく全てとらえている。

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