河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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1306- オリヴィエ・メシアン トゥーランガリラ交響曲、アンドレ・プレヴィン N響2011.10.21

2011-10-23 11:09:43 | インポート

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2011-2012シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちら。
2011-2012シーズン
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2011年10月21日(金)7:00pm

NHKホール

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メシアン トゥーランガリラ交響曲
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 オンド・マルトノ、原田節
 ピアノ、児玉桃
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アンドレ・プレヴィン指揮
NHK交響楽団
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一応、交響曲ということで。
フレームとしては「束ね1」の解説が多い。個人的には「束ね2」のイメージを持って聴いているのだが、どっちにしてもこのフレームだと前半2・3・4曲に比して、後半の7・8・9曲が弱い気がする。むしろ、1・5・6・10曲をフレーム骨子として、あとは隅々までちりばめられた瞬間の天才技の作曲技法を耳と体に浴びせまくる、いわゆる共音楽、つまり音色のあやを皮膚に感じさせる。だいたいそんな感じでいつも聴いている。
この日のN響の白眉は8曲10曲だったと思うのだが、メシアンの作り出す音の積み重ね(と思われる)の迫力が第8曲では水平に、第10曲では垂直に、それぞれ曲の特質を見事にあらわしていたと思います。
プレヴィンは、10曲を並列的な具合に並べた感じで、それぞれの曲の響きの特性をうまく引き出していた。まるでイギリス、ブラスバンド風な響きを前面に押してきている。その割には、曲間のインターバル・タイムがあっさりするほど短く、まるでアタッカではいってしまったのかと思われる曲もあり、つまりそのようなことにメリハリ感効果を求めない。音楽の響きを作り出すことに没頭している姿であり、結果、好みの音色音楽となった。
ロングな第6曲まるでアダージョのような「愛の眠りの園」、この曲にズブズブまみれるほどのこともない。繊細であるが引き延ばした濃さのようなものはなくむしろあっさりとさえしている。
全体としては拡大解釈風な方面に膨らむこともなく、デッドな解釈で、等身大の音楽を表現、そこにプレヴィンの好みを少し加えた。そんな感じです。
少しあったのは、10曲目にアタッカではいること。これで一気に「束ね1」でも「束ね2」でもないことがわかる。プレヴィンはクライマックスをどこに置くのか。
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座っている席がやや左前方で、児玉さん、原田さんがよく見え、プレヴィンの棒が全部見える。小さい動きながら間違いのない指示ではあるが、あの動きからN響メンバーが確信をもって奏していたのは驚嘆するところであった。
スーパーのカート風手押し車で登場、足腰がだいぶ弱っているのだろう。座っての指揮で腕の動きは小さいながら俊敏。頭の冴え具合は変わらない。
彼の解釈は昔からゆるいというか、そのような範疇で語るべき指揮者ではなく、彼の前にはいつも素晴らしいオーケストラという楽器が常にあったのだ。
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779- プレヴィン ピッツバーグso. in New York 1984.5.23.

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