河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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896- ウンスク・チン 管弦楽2009.8.28 サマーフェスティバル2009

2009-08-30 10:32:30 | 音楽

Scan10058

サマーフェスティバル2009

MUSIC TODAY 21

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このサマーフェスティバルも後半。

今日はウンスク・チンの管弦楽集。といってもほかの作曲家の作品もはいっている。フル・オーケストラの曲はあまり多くないのかしら。。

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2009828()7:00pm

サントリーホール

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昔、N響を振って現代音楽をやったとき棒を振り間違え、こんがらかってしまい、ストップし、聴衆に一礼し、頭から振り直したことがある秋山が今日の棒だ。

今日は5曲。ウンスク・チンの曲は2曲だけ。

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●一曲目 15

ジョルジ・リゲティ/

 サンフランシスコ・ポリフォニー

秋山和慶 指揮 東京交響楽団

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リゲティの1974年の作。初期のクラスター音楽。いわれてみれば確かにそんな雰囲気を感じるが、それは今となってみればということだろう。房とは言え、それぞれの粒が集まり房というもうひとつのまとまりを示しているかというとそうでもない。たしかに初期だなぁ。音色の色彩とリズムが同時に変化していき、細かい流れのなかに引き延ばされたハーモニーがあらわれるあたり過去を引きずっているようにも聴こえる。いわゆるポリフォニーなところはあまり強調されていない。というか、

昔のいわゆるクラシック、覚えやすい節(ふし)であれば、ポリフォニーは明確に聴き分けられるであろうが、現代音楽においてはその節の覚えにくさ、つまり作為的なもの(芸術はみんな作為的なんだろうけど)が自然に見えない、聴こえない、そうゆうところが一面としてあり、それに対して既存単語のポリフォニーという言葉を当てはめてしまうのは多少問題がある。

タイトルはサンフランシスコ・ポリフォニーとなっているが、サンフランシスコ交響楽団創立60周年のために書かれたのでそのような語句になっているだけ。

モダン・ポリフォニー

ということだなぁ。当時としてみれば。。

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●二曲目 5

アントン・ウェーベルン/

 オーケストラのための5つの小品、Op.10

秋山和慶 指揮 東京交響楽団

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ドライなベルクよりウェットなウェーベルンを。オーケストラの編成がかなり絞られている。あっという間に終わる。音色変化の保持時間は必然的に短くなるものなのか。象徴的な曲なのかもしれないが、それならばオタマジャクシの普線上の12の数と楽器数の勝負になるのかしら。微分音なんていう発想、出てきて当たり前?ということになる。

あとはダイナミズムとリズムの変化。

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●三曲目 17分 日本初演

ウンスク・チン/≪ロカナ≫

 ~大オーケストラのための

秋山和慶 指揮 東京交響楽団

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全く西欧の響きに聴こえるのだが、本人によると、

「文化的に異なる出身地を持つからか、シンフォニーオーケストラというものの音響にある種の反発を覚える。19世紀的美学の残滓については特にそう。ヨーロッパ以外の音楽文化に惹かれる。ヨーロッパ以外の音楽体験を通して、異なる音色を持ちこんでいきたい。」

つまり、全く逆のことを考えているようだ。

裏も表ということか?

聴いていると、まず形式感はない。構造物だ。

絞り出すような響きが苦しげで印象的。また、音の保持も特色があり響きの継続を感じさせる。音色構造物に光をあてる、光の多くの色を放射する。そんな雰囲気で、さらに聴き進めると拍子も含めロシア的な荒々しさがときに表出される。

ウンスク・チンの民族的なバックボーンはなんなのか、韓国の民族的は響きとはどういうものなのか、そもそも聴いているほうがわかっていないというところもあり、この初めて聴く作曲家の作品を勝手に決めつけてはいけないのだろう。聴衆は今まで聴いてきた音楽をもって判断、楽しむ、それだけだ。

824日の室内楽とは別の響きの多様性、多様な表現などを感じるが、24日の曲のほうがより緻密というか、全てのことにいきとどいていた。オーケストラ表現力についてはこの先まだ可能性が広がる。

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●四曲目 9分 日本初演

スキ・カン/≪カテナ≫

 ~大オーケストラのための

秋山和慶 指揮 東京交響楽団

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例によって曲の説明がプログラムに載っている。60個の断片の変化、バリエーション等ということのよう。オーケストラ曲であるから、一つの楽器、複数の楽器によるハーモニー等音色変化もある。つまりその国の特色、民族に継承された響きといったあたりは関係ないのだろうか。聴いていてもなにがどうなのか今一つ分からない。理解不足というか、事前に知っておかなければわからないことがたくさんある、不勉強?経験不足、聴き不足、たぶんそういうことなんだろう。

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●五曲目 18分 世界初演

ウンスク・チン/シュウ

 ~中国笙とオーケストラのための協奏曲

笙、ウー・ウェイ

秋山和慶 指揮 東京交響楽団

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2009年出来上がったばかりの作品のよう。

笙という楽器の音は意識して聴いたのは初めて。雅楽や雅楽のはいったオーケストラ曲で聴いたことはあるはず。ただマウスピースというか吹き口というかこのようなスタイルのものはどうなのだろう、よくわからない。

日本の古典楽器もそうなのだが、一般に周波数ヘルツが高く、音域が限られ、西欧発のその気になって聴くとかなり低域で動き回るオーケストラと様相が異なる。笙のサウンドはオーケストラとミスマッチであり、逆にその妙というのはあるかもしれないが、曲想も多様性に富んだものではなく、一番に音楽の閃きみたいなものが感じられない。

プログラムの本人説明が長すぎる。それだけ聴くほうの前提不足を認識しているということなのだろうが、音楽の閃き、というのはそこらへんとはちょっと違っていて、音楽を聴きこんでいる人にはわかると思うのだが、音楽の一瞬だけでもいいからなんか、

「作曲家は相応の試行錯誤、努力、勉強などの積みかさねの結果なのだろうが、聴くほうは、天才の閃きのように感じる音楽の瞬間。」

そんなものが感じられない。例としてはどうかと思うが、メシアンのトゥーランガリカ交響曲って、全部最初から最後まで天才の閃きの連続のように感じる。あすこまで極端でなくてもいいから、これぞ音楽の表現、といったあたりが少しは欲しい。聴いているほうとしては。。

現代の音楽では、こんなこと、忘れられて久しい?

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おわり

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