河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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1313- ヘルベルト・ブロムシュテット N響 悲愴など 1981.11.13

2011-11-14 00:10:00 | コンサート

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1981年11月13日(金) 6:45pm NHKホール


ウェーバー オベロン序曲

ドヴォルザーク ヴァイオリン協奏曲
 ヴァイオリン、堀米ゆず子

チャイコフスキー 交響曲第6番 悲愴

ヘルベルト・ブロムシュテット 指揮 NHK交響楽団


昔の演奏会のメモ書きです。メモ書きをそのまま書き置きます。

ブロムシュテットがタクトを振ると曲が大きく見えてくる。「悲愴」におけるエンディング後の完璧な空白。ほとんど一分にもおよぼうかという異常な空白であった。日本の聴衆のこのような反応のしかたというものはめったに聴けるものではない。先ごろ聴いたドレスデン国立歌劇場管弦楽団による「未完成」のときも同様な状態になったのを思い出す。
それにしても「悲愴」における巨大な表現はなんだろうと思う。二管編成のとりたてて多くもない人数の演奏なのに。
音の強さではなく表現の強さなのか。例によってブロムシュテットは弦にほとんど比重をかけ、金管はその上にブラッシング的に乗ってくるといった感じだ。弦の力強い表現はドレスデンのときも感じたのだが、全く素晴らしいとしかいいようがない。
チャイコフスキーの曲は短期間の練習で比較的楽にブロムシュテットの望む表現に近づくことが出来たのではないか。むろん彼が望む最高の曲想は第4楽章にありと思う。一瞬、ブルックナー的な空虚な弦の響きが何とも言えず素晴らしい。また第1楽章再現部第2主題へのはいり方も忘れられない。それに今回特に感じたことは、かなり条件の悪い位置から聴いたにもかかわらず、この前の読響とは違い音楽は途切れず流れ出していることが確認できたことである。ホルンの千葉氏は最初から絶好調であった。ペーター・ダムばりであろう。ブロムシュテット君!
これで純金管群が弦楽器の上にまさに矢のように鮮烈なブラッシングを常に奏でることができるようになったら....

ドヴォルザークは問題ない。ヴァイオリン・ソロのチューニングに注意するのみ。合っていないと耳障りになるものだ。

最初のオベロンは実はこの前ドレスデンがアンコールで演奏したオベロンからつながっていたのだ。
おわり

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