ヘルベルト・ケーゲルは日本では最近になって発掘されはじめた。
音源と財源がない昨今のレコード会社は、セッション録音をやれるだけの力がなく、もっぱら昔の音源を衣装替えして再発を繰り返している。さらに、どこかの蔵に寝ている昔のライブ音源を、全部名演、みたいなうたい文句のもと発掘に余念がない。昔のライブ演奏が全部名演なら今頃ガタガタ言わないでほしい。大半は日常的に我々の前を通過しただけのものだ。聴衆もそれ以上のものを望んでいるわけでもない。蔵にしまってあった品質の良いものならまだしも、エアチェックのテープを音源としたCD化については、そのチープな品質のみならず、チープな考えに思い至り、まずは過去にしてこなかったことを反省するべきだ。
ライブ録音のCD化は一部の音楽評論家たちが変に推奨する部分があり、一度しかない白熱の演奏、などと買い手を戸惑わせるキャッチコピーでうまく売りさばけるようになった。
ライブ録音CD化はやりの最初のころは、みんなその美辞麗句になびき、聴く方もスタジオ録音にない新鮮さが確かにあり、商品として多少の瑕疵があっても買って聴きたい、という気がしたものだ。
最近のCDに関しては、ライブと思えぬ静かさ、などと限りなく本末転倒なことを言う評論家もいる。スタジオ・セッション録音に近づくのが理想なら、白熱のライブ、などとは言って欲しくない。この社会現象をもう少し論じてほしいものだ。
とはいってもお粗末なCD作りのセッション録音もある。ここのところユニバーサルのDGやPHILIPSからでている昔のパウル・ファン・ケンペンのCDなど、内容の充実度とは関係ないところで損をしている。継ぎはぎのよくわかるCDで興を殺ぐ箇所がある。
いずれにしてもまともなセッション・スタジオ録音がじり貧となっている現在、店頭の棚を満たすにはライブ録音CDがどうしても必要となってしまった貧弱な音楽村社会ではある。
1989年にもなにげなく通り過ぎていってしまった演奏会もかなりある。演奏の中身とは関係ない大事な出来事も今となってみれば全ては暗闇の記憶のかなただ。演奏するほう、聴くほう、何の関係もなく、それぞれの思いがそれぞれの中に刻まれるだけだ。
ケーゲルはいつもどおり演奏した。
1989年10月17日(火)19:00 サントリー・ホール
シューマン/ピアノ協奏曲
ピアノ、アンドレアス・ピストリウス
マーラー/交響曲第4番
ソプラノ、V.H.フライベルガー
ヘルベルト・ケーゲル 指揮 ドレスデン・フィル
この年、ドレスデン・フィルが来日し、10月7日から19日まで10公演を行った。そのうち8回目の公演となる17日に聴いてみた。
ドレスデン・フィルの音というのは、何か全体に隙間風がふいているようでもあり、濃いグレー色のチェック模様のオーバーコートの音を聴いているような、どちらかというとうらぶれたさみしさが漂うものであった。
他日の運命や田園は驚天動地の演奏のようにささやかれていてCDも出ている。今頃言うな、演奏会で聴いた次の日に言え。演奏会に行ってなくてなにかしらの音源のみで語っているなら、それでもやはり、いまさら何をか言わんや、である。手後れである。このような現象は音楽愛好家全般には受け入れられにくく、興味を持つ愛好家が50パーセント。そのうち店頭でジャケットに触る人が20パーセント。買う人が1パーセントぐらいだと思う。発掘もいいが、そのときの時代のライブをそのときに誉めたたえ、愛好家に訴えるべきだった。今頃言っても成り立つのが音楽であり、保存メディアの発達のおかげかもしれない。
この日のシューマンはどうであったかと言うと、戦後復興みたいな音の隙間から重苦しくオーソドックスにそして粘り気なく響く音楽がかなりうっとうしかった。生気がないわけではない。なんだか古い音楽が騒がしいのだ。ここまでしてバブルの日本に来る必要が本当にあったのかしら。
マーラーの4番。これこそ下手をすると隙間だらけの音楽。精神集中、充実度、がボーイングを滑らかに引き延ばしオタマジャクシの間も音で埋められ、音のニュアンスは生気をおびてくるのだ。その反対のことをケーゲルはしたかったのだろうか。
何事もなく第1,2楽章を過ぎ、第3楽章の最後の盛り上がりも空回り気味に終息し、第4楽章の繰り返されるソプラノの響きとともに最後は消滅していってしまった。
翌年の1990年、ベルリンの壁崩壊が関係あったのかどうか知る由もないが、ケーゲルはピストル自殺をした。
あのマーラーはケーゲルの精神の火が消え去った後の音だったのかもしれない。
おわり