2019年4月24日(水) 7:00-9:15pm サントリー
ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調op.77 11-7-13+5
ヴァイオリン、ワディム・グルズマン
Int
ミェチェスワフ・ヴァインベルク
交響曲第12番op.114 ショスタコーヴィチの思い出に(1976) 20-9-12+18
下野竜也 指揮 NHK交響楽団
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今年2019年はミェチスワフ・ヴァインベルクの生誕100年とのこと。一昨年2017年にクレメルの弾くヴァイオリン協奏曲がありましたけれども、印象としてはどうだったのかな。
2402- ヴァインベルクVC、クレメル、ショスタコーヴィッチ4番、カスプシク、読響、2017.9.6
今日の後半プロはショスタコーヴィチに絡むシンフォニー、前半はそのショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲、緊密な関連性のプログラムビルディングと思われる。
まずはグルズマンが弾くヴァイオリン協奏曲から。シカゴのストラディヴァリウス協会から貸与されている1690年製ストラディヴァリウス(エクス・レオポルド・アウアー)とのことだが、全くの門外漢でわからない話。とはいえ、聴いていてよく分かったのは、凄い性能の楽器それ自体の能力を100パーセント引き出している音に聴こえたという事。使いこなしているなどといった生易しい話では無くて、インストゥルメント自身が自分の能力をアクティヴに出しているように聴こえる。楽器の音が聴こえる。
1番はよく演奏されるが3,4楽章の吹き上げるようなものがなかったらそうとうに厳しい作品と思う。聴くほうの忍耐と快感の享受がバランスしている際どい曲。それを音のたっぷりとした幅、ふくよかな鳴り、技巧が殊更に前に出ることの無い自然体を感じさせる音楽性、大した腕前でこの作品を聴かせてくれる。厳しい作品がものすごく大きなものに聴こえる。巨大な作品の様に見えてくるから不思議。シンフォニーと思ったほうがいいのかもしれない。ビッグな腕前のコンマスが弾くシンフォニーと。
下野の棒は全くテンポを緩めないもので、今にも下がってしまいそうなアウトラインを見事なタクトで持ち上げてくれる。このテンポ感。現音振りの一面をよく魅せてくれる。こうゆう棒だと曲が良く締まりますね。40分規模のヴァイオリン協奏曲、タップリと楽しみました。
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後半のヴァインベルクの12番シンフォニー、1975~1976年の作とあるから、ショスタコーヴィチが1975年になくなってすぐに書き始めたものだろう。In Memory of Shostakovichの副題も思いの通りだと思う。1時間規模の長い曲。
第1楽章は作為に作為を重ねたような序奏から。このねじれたような楽想は故意なのか推敲の結果なのか。とりあえず聴き進めていくと響きの総体はショスタコーヴィチというよりはマーラーの響きが満載。シンバル一撃からコーダと思うが、そのコーダなど10番アダージョそのままではないかと思ってしまう。ここらたりまできてようやく引用という言葉が浮かぶ。ソナタ形式で通過してきた少し斜めに構えた楽想はやや厳しい。吹っ切れ感が一か所も無いもので、ソナタ形式ならある程度のメリハリが欲しいところ。
この第1楽章と同規模の終楽章はさらに厳しい。マリンバソロから始まる終楽章は前の第3楽章からアタッカで連続してくるもの、マリンバの不思議な鳴りがこの後出てくるパーカッションたちを代表しているようだ。ショスタコーヴィチの15番結尾の雰囲気と思えるのは最後の最後。この終楽章冒頭のマリンバから始まるのが第1主題とすると、副主題は3拍子系の威嚇する様な音楽。これはマーラーの奇妙な中間楽章の主題のように聴こえ、今頃これが出てくるのかといった手遅れ感がある。大詰めで鳴らすような節ではないだろうと。
両端楽章の時間規模は同じながら、DS15の終結を真似た先細り感に時間を割くため、バランスとしてはいいものではない。終楽章のほうが薄い。この両端楽章のつくり込みは推敲不足と感じる。
第2楽章のスケルツォは遅くて重いマーラーモード。この楽章は形が透け過ぎ。
次のアダージョ楽章はなにやらDS5番3楽章を思い出させるところもある。が、ここまでくると、一体全体、どっちに似ている、引用がどうだこうだ、いろいろあるけれども、したかったことはそんなことではないだろう、と思いたくなる。In Memory of Shostakovichの副題を自作品にどのように料理したのか、わからない。というのが率直な思いです。
この作品年次の頃のいわゆる現代音楽がどのようなものであったのか知らないが、物足りない。もっと明確な意思表示を作品に注入すべきだったと感じる。ショスタコーヴィチの思い出に、という副題の作品を作るには早すぎたと思う。
下野の指揮は熱のこもったもので、十分な共感が手に取るようにわかる。のだが、心の中までは見えない。ほぼ譜面にらめっこはいたしかたがないものだろう。はたしてこのような作品に彼は熱意を捧げるべきなのだろうか、などとは言わないが、100年節目の作曲家とはいえ何故にこうもこの作曲家の一作品に没頭したのだろうか。
おわり