河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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2308- 太鼓連打、巨人、カンブルラン、読響、2017.4.8

2017-04-08 22:37:21 | コンサート

2017年4月8日(土) 2:00pm 東京芸術劇場

ハイドン 交響曲第103番変ホ長調 太鼓連打  8′10′5′6′
Int
マーラー 交響曲第1番ニ長調 巨人  17′8′11+23′

シルヴァン・カンブルラン 指揮 読売日本交響楽団


ハイドンは序奏がヘビーでその序奏が再帰するのでさらに重くなる。ベートーヴェンが好みそうな第1楽章。カンブルラン棒は4拍目に込めた力感が心地よく、アウフタクト気味に一連のフレーズの最初のオタマのようなつながりを感じさせる。
2楽章も規模が大きい。変奏曲を2つの主題でやれば大体長くなる。カンブルランはこういったところは飽きさせませんね。後半楽章は特にスケルツォがバーの頭に力があって印象的。といったあたりのことがインプットされて、
後半プロのマーラー1番はオケのコンディションが、なぜか、よくありませんでしたけれども、とりあえずそれを横に置けば、ハイドンのシンコペーション気味アウフタクト念入り進行とスケルツォ的頭きっちり進行をカンブルラン的ハイドンとすると、マーラー第1楽章で、このハイドン的味わいが一つのパッセージに同時に出てくるようなところがあり、ジャングルジムのように音の骨格の組み合わせ具合と透けて見える遠景、そういったことがよくわかるもの。
ハイドンはシンプルに楽しめるのに対しマーラーの演奏は結構なコンプレックスエクスプレッションと言えよう。

速度設定の事が色々と目立ちますけれどもカンブルラン方針は、速度はいじらない(とりたてて関心事項ではない、駆り立て要素の速度効果に関心が無い)、別の事をしているという話だと思います。今日のマーラーを聴いていると、1月に演奏された彼方の閃光の美演方針を思い起こさせてくれますね。

テンポは堅持しつつ、水平的な流れの中での音符の均一性から浮かび上がるメシアンの美しさの表現、そういう意味ではゆがまない建築物を構築するには、テンポの堅持は一つの大事なエレメントと言えるのかもしれない。なので、インテンポという単語はニュアンスとしては彼の場合ちょっと違う感覚。ブルーノ・ワルター的ゆっくりズムと当時の現音発掘者クレンペラー的感覚の違い、カンブルランの場合、よりクレンペラー的な味わいがありそうな気配をフツフツと感じる。まぁ、ワルターのメシアンは思い浮かばないけどクレンペラーなら凄かったろうなというのはありだな。

並んでいる音符からストレートにエモーショナルなものを表現していくマーラー作品。そしてオーケストラにはプレイ具合が、いい悪いは別にして昨今のマーラー流行病(はやりやまい)の中、すっかり染みついてしまっているわけで、そういったものをワイプアウトするのはそんなに簡単な事ではないだろうと推測される。今のマーラー演奏の呼吸とかアクセントといったものにすっかりまみれている。カンブルラン流のマーラーのイントネーションに再構築するのは短期間では難しそう。(だから、2回公演があれば確実に2回目のほうが説得力のある演奏となります。)
メシアンのような作品だと、まっさらなキャンバスから始められるというのはありそう。

終楽章はかなりのスローテンポでしたけれども、以上のような具合ですから、慣れない解釈によって、オケのブレスには空きが目立ち、ハーモニーがまだら模様になるような演奏となっちまいました。びっしり敷き詰められたサウンドとなめし皮のようなハーモニーが一つ一つしっかりと鳴っていけば別のマーラー像が打ち立てられていたやに思う。後期クレンペラー的味わいといって語弊があるなら、音を濡れて光るストーン・ペイヴメントのように魅せてくれるカンブルラン的味わいが聴けたかもしれない。
おわり


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