●
1991年のレニングラード国立歌劇場の初来日のことを書いてます。
.
3本の出し物のうち、これが3本目です。
2回のみの上演です。
.
1991年12月4日(水)18:30
東京文化会館
.
ムソルグスキー/ホヴァーンシチナ
(リムスキー・コルサコフ版)
.
演出:スタニスラフ・ガウンダシンスキー
.
イヴァーン・ホヴァーンスキー公/
ウラジーミル・プルートニコフ
アンドレイ・ホヴァーンスキー公/
ヴィクトル・アファナシェンコ
ゴリーツィン公/アレクサンドル・ペトロフ
シャクロヴィートゥイ/ニコライ・コピロフ
ドシフェイ/ウラジーミル・ヴァネーエフ
マルファ/イリーナ・ボガチョーヴァ
代書屋/ヴィクトル・ルキヤーノフ
エンマ/ヴァレンチーナ・ユズベンコ
他
.
指揮ミハイル・ククーシキン
レニングラード国立歌劇場
●
リムスキー・コルサコフ版による全2幕版。
第1幕=3場
第2幕=3場
という構成。(本来は5幕6場もの)
.
台本がムソルグスキーのオリジナル、未完成の遺作でアルコールのせいもあり、わりとボロボロ、オーケストレーションはショスタコーヴィッチやリムスキー・コルサコフが行う。幕構成を変えてかつ削除、改変あり。こんななのに。。
ものすごい。うったえる力が。。
はまればはまるほどはまってしまう。深い心理劇の中に。。
.
心理描写を音楽とともに表現したホヴァーンシチナはオペラというよりも、もう、劇そのものだなぁ。音楽は縁取りを与えていく。
第2幕終場で炎の中にはいっていく教徒の姿は凄惨極まりないストーリーで観ていられないくなったりする。死が彼らを救うのかもしれないが、あまりの壮絶なラストシーンに、そのような観念の世界を超えた不思議な軽い空気のような、歪んだブラックホールのような、なんとも言えない心理世界に没我となりエンディング。。
いつもこうだ。。
.
ホヴァーンシチナこそは、CDだけではまるでわからない世界だ。観なければはじまらない。だって、劇を、音だけ聴いてどれだけわかるというのか。
出来れば生で観たい。DVDなどヴィデオでもいいが、スクリーンが部分的だったりしてどうももどかしい。
だから、日本でロシアのオペラが上演されるときは、ロシアものはロシア人にしか出来なくて、日本人がやったなどという話は聞いたことがないし、絶対に観に行かなければならない。
●
第2幕は3場まであるのに、ホヴァーンスキーは1場で殺されてしまう。
ペルシャの女奴隷たちに踊りを踊らせ、そのあたりから空気は微妙なものになり、シャクロヴィートゥイの命を受けた刺客が突然ホヴァーンスキーを襲い、一突きで彼はやられる。
シャクロヴィートゥイによるペルシャの女奴隷の歌が薄気味悪くソロで繰り返されるとき観客は鳥肌が立ち、完全にムソルグスキーの世界にはまる。
.
権力の移り変わりだけでなく、宗教の世界をからめその比重が大きいのがホヴァーンシチナであり、そこがボリスの世界とやや異なる。
流れとしては、ボリスのあとにホヴァーンシチナで締めくくれば、宗教的なものが権力の推移を終わらせてくれるのではなく、いつまでも繰り返されるから、ストーリーとしてはここで一区切りを持ちたかったのだろうというムソルグスキーの台本作戦だったのではないか。そのようなことがなんとなくわかるような気がする。
●
それで、レニングラード国立歌劇場であるが、なんというか、スタイリッシュとでも言おうか、微妙な不気味さがあまり前面に出てこない。どろどろしたものがない。
なんだか、普通の劇のように進行する。終場はインパクトがあまり感じられず、あっけにとられているうちに尻つぼみ的に終わる。リムスキー・コルサコフ版のせいなのか。
舞台もきれいすぎる。暗いことは暗いのだが、事物人物が整理整頓されていて、あえて言うならば、機能的とでも言おうか。そのこと自体がうったえる力を少なくさせるとは言うまいが。
.
歌もオーケストラも全体的に線があまり太くなく、細ければ細いほど正確性が求められてしまい、そこの兼ね合いがうまくとれていなかったのかもしれない。
ただ、その場で感じたのは、その日はそうだった、ということであり、あぁ、別の日はきっちりとものすごい日があるのだろう、と思える力をそこかしこで出していたこと。
●
終わり