ホロコーストの音楽 シルリ・ギルバート著 収容所の極限状態での歌と演奏
〈評〉音楽学者 岡田暁生
「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」とは、アドルノの有名な言葉である。あらゆる表象=「思いやること」を拒絶する地獄絵。そういうものを「歌う」空虚と欺瞞(ぎまん)。このような世界は、それを体験しなかった者に対して、詩や音楽を厳しく禁じる。深海のような音のない世界としてしか、私たちはそれを思い描くことが出来ない。にもかかわらず――実際のアウシュヴィッツにはいつも音楽があった。絶対の沈黙としてしか表象できないはずのものが、本当は様々な響きで彩られていた。恐ろしいことだ。収容所の中の音楽生活を描く本書が突きつけるのは、この二重に反転した逆説である。
アウシュヴィッツにはいくつもオーケストラがあった。収容所には当然ながらユダヤ人が圧倒的に多く、その中には優秀な職業音楽家も稀(まれ)ではなかった。グスタフ・マーラーの姪(めい)のヴァイオリニストもまた、アウシュヴィッツの指揮者をしていた(彼女はそこで病死した)。ナチス親衛隊の中には洗練された音楽趣味を持つ人もいて、彼らは収容者たちのオーケストラに耳を傾け、そのメンバーと室内楽に興じたりもした。そんなとき親衛隊員は意外にも「人間らしく」なることが出来た。また新たな収容者が列車で到着すると、怯(おび)えきっている彼らを落ち着かせるために、ここでも音楽が演奏された。そしてガス室送りになることが決まった人々が、誰に言われることもなく声を合わせて歌を歌い始めることすらあった。彼らは激しく親衛隊員に殴りつけられた……。
本書の淡々とした記述を前にしては、ただ絶句するしかない。極限状態にあってなお人は、収容者も親衛隊員も等しく、音楽を求める。それはきっと人間的な感情の最後の砦(とりで)なのである。絶対の沈黙に耐えられる人はいない。だが同時にアウシュヴィッツにおいて音楽は、本書の著者いわく、極めて合理的に「絶滅の工程に利用された」。本書を読んだ後ではもはや、「人々を音楽で癒(いや)す」などと軽々しく口には出来ない。音楽がもたらすものの美しさは、通常の世界でのみ許されている贅沢(ぜいたく)品なのである。
(二階宗人訳、みすず書房・4500円)
▼著者は英サウサンプトン大上級専任講師。