河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

0018 季節はずれのラ・ボエーム

2006-07-13 00:01:06 | 音楽

 

暑い夏のさなか、ラ・ボエームとかフレダーマウスなどは季節はずれかなと思う。
クリスマス・イブに厚着で絶唱する姿を今の時期あまり見たいと思わない。また、フレダーマウスの日めくりカレンダーが32日になるのも大晦日まではその雰囲気を楽しめるが、それを過ぎるとどうかなと思ってしまう。
それじゃ、交響曲ラ・ボエームというのはどうだろうか。河童の耳には、このボエーム、交響曲のような形式感を感じてしまう。ソナタ、スケルツォ、アダージョ、再帰のソナタ。スケルツォとアダージョの逆転は、ベト9、ブル8なみだし、再帰のソナタはブル5を想起させる。プッチーニは擬音効果がうまくリアルな表現もあるが、それでも全体的には表現的なものより構成感を感じてしまう。第1、4幕の入れ替えはベノアとムゼッタだけだし、導入部はほぼ同じだ。一方は出会いと感情の発露だし、もう一方は悲劇の終末となる。この対比的な緊張度と構成感はすごい。
あかりを借りにきたミミは、その火を失い、部屋のマイ・キーまで落としてしまう。あやしいものだ。自分のあかりをふっと消して一緒にキーを探すロドルフォとミミはすでに同化している。そしてキーではなくミミの手に触れる。
テノールの絶唱。なんという冷たい手。チェ ジェリダ マニーナ。
みんな私のことをミミとよんでいるの。ミ チアマーノ ミミ。
そして続く、真の愛の二重唱。これぞまさしくイタリア・オペラの醍醐味。
この約20分の歌だけでラ・ボエームは十分だと思う。
しかし、これでもかと第2幕にアタッカで突入し、イブ・ナイトを、例えばフランコ・ゼッフレルリのプロダクションでは豪華を極める。これは日本の舞台では再現不可能だ。物量の多さがある種の感動を呼び起こす稀有の例。マーチのスケルツォ、ムゼッタのワルツのトリオ、という具合で拍子は交響曲の場合といささか逆転しているが雰囲気は曲想にあっている。
そして、’対’の表現を極めたアダージョ楽章。この第3幕は、ロドルフォとミミ。マルチェルロとムゼッタ。息の長いフレーズと交差するアップテンポの曲想の対比。深々と雪の降る静かな背景。二つの打撃音で冒頭と結尾を締めくくる単純だが構成感が曲を締める。実に素晴らしい対比と完結。さらにこの打撃音は第2幕までの出来事まで想起させる説得力をもつ。
そして、再帰したソナタ第4幕で、悲劇の終末は予想したとおりにやってくる。コラージョ。悲しい解決というのはその先が不要なわけで一理あるが、ボヘミアンの生活がいろんなところで営まれているのだろう。これが人生。何度見ても泣ける。この2時間にかけてもいい。と思えてくる。

 

推薦できるような録音はない。河童ボエームは山のようにある音源からどれ一つ満足できるものがない。どうしても生でこの2時間にかけてほしいと思うからだ。
あえてあげるとすると、1991年に来日したベルリン・コミーシェ・オーパのハーリー・クプファー・プロダクションによる非常に演劇性の強いドラマチックな公演。あのとき、河童は誰一人として知っている歌い手はいなかった。でもハイレベルで緻密な演技と歌に、まるで劇でも観ているような錯覚に陥ってしまった。クプファーの有無を言わせない強烈な説得力。重箱の隅々まで完璧に意識された演技。これはどこかにヴィデオがあるはずだ。
CDでは、モンセラ・カバリエの全てを黙らせてしまうピアニッシモ。天井桟敷まで納得させてしまう超離れ業ピアニッシモのあまりに遠くまで透き通る声。それを少しだけ感じさせてくれるCDがある。ドミンゴ。ミルンズ。ブレゲン。ライモンディ。指揮はショルティ。間延びか、美しさの極限か、ギリギリの線で踏みとどまっている。ドミンゴはどちらかと言うとカヴァラドッシが似合っている感じもあるが、ここでは若々しい声質を聴くことが出来る。
おわり

 

 

 

 

 


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