同じ内容で、新たなCDがまた発売された、ということだけが、聴きなおすきっかけになるようになってしまったら、音楽の聴き方を再考した方が良い。
フルトヴェングラーが振る戦中のエロイカはたしかに素晴らしいが、本当はエロイカが素晴らしい曲なのであり、昔のベルリン・フィルやウィーン・フィルよりも技術、機能では上をいくオーケストラがいたるところゴロゴロと存在してしまっているような現代においては、まずい演奏を探すのが難しいぐらいかもしれない。普通に演奏していればエロイカのもつ曲の魅力は自然と理解できる。
ウラニアのエロイカはスピーカーから押し出されたようなオーケストラの水際立った充実度、テンポに緩急をつけることにより、ある部分はより加速度的な流麗感を味わうことができ、他方ではスローなテンポにおいて静寂が強調された音の清らかさを味わうこともできる。
ベートーヴェンのドツキの音楽はときとして、第1番、第2番あたりで、既に辟易感をもってしまうような演奏もある。
聴き手をこんなにドツイて一体、何を伝えたいのか。自意識過剰で、まわりが戦う意志もないのに一人で闘争心をもってどうするの?といった演奏だったりするが、フルトヴェングラーの場合、このエロイカを聴いている限りドラマティックではあるがドツカれている感覚はあまりない。9曲ともそれぞれ完成したものとしてとらえているようで、この1曲、に専念して聴くことができる。
それにしても、だ。
よくもまぁ、何度でも出てくるものだ。
ウラニアのエロイカの場合、何が正規盤なのか知らないが、いろんなところから出る。
同じレーベルの再発もあるし、LPからの板おこしなどもある、フォーマットも種々、リマスタリングもよりどりみどり。
昔の録音が、昔聴いた音より改善されて良くなっている、だからその分の聴く価値はある。
今まで聴こえていなかった音、違っていたバランス、強弱、など、より正常なものを聴いて感銘をあらたにするのはそれはいいことだ。
しかし、もうそろそろ、いいのではないか。
河童がフルヴェンを聴かなくなった理由は、嫌いになったからではなく、ストックだけが増えた状態、になり、そこにあればいい、という心的安心感を得るだけでよくなってしまったからだ。
いくら在庫を増やしても、新譜はほぼないわけだから同曲同演奏再発集めになってしまい、ある程度集まってしまったらその後の展開はなく、あふれる「同じもの」のなかでもがいてる自分が見えてしまったから。でも、平林さんもどこかでいっているように、処分しないで置いておけばいつかまた聴くことがある、というコメントは実に納得できる。きっとその時が来ると思っている。のだが、今は同曲同演奏のCDはいらない。ひとつだけあればいい。聴きたくなったらそのときに手に取り耳にするものがあればいい。
同曲同演奏の音質聴き比べ、発売されたときが聴くとき。といったことはやめた。ほかに聴くものは山とある。
ちょっと話がそれるが、もうひとつ悩ましいのは、同曲異演の多量ストック。
エロイカならエロイカでいいが、そのエロイカをLP,CD,DVD,エアチェック、など、一曲に50種類ものエロイカをもつこと。
たしかに指揮者もオーケストラも違うと、聴く方としては曲を知っているため、その演奏の違い、オーケストラの音色の違いなどを聴く楽しみはできる。
しかしそれも一昔前までの話。今は文化の平板化がクラシック演奏にも波及しており、フランチャイズ的、ローカルな味わいはなくなりつつある。
むしろ指揮者の解釈の相違がおもしろい、といった、あまりにも有名な曲ゆえの逆説的な指揮者待望論にたどりつきそうな感じになるのは、なんか変だがこれも奇妙な事実かもしれない。
これにはクラシックの作品の幅が狭いためという側面もある。ある限られた時代の限られた作品を芸術として何度も繰り返してきているのだ。日本の古典でもそのようなものはあるが、引き継がれていくような、伝統、とはいったいなんなのか。よくわからなくなる。
昔、ここに道があった、というのと同義語のように聞こえてきてしまう瞬間もある。
幸い、クラシック音楽業界もそのことに気付き始めたらしく、昔なら全く知らなかったような作曲家や、有名作曲家の未知の曲、の掘り起こしが盛んだ。これはこれで聴く方も未知の歴史に足を踏み入れる感覚をいまさらながら味わうことができ耳がリフレッシュされる。ただし、昔のエアチェックやライブが、全部名演、みたいな売り言葉で売られている現状はみじめな音源探しのようにも見え、もうこれもそろそろ潮時にしてほしい。むしろ正規セッション録音に改めて力をいれてほしいものだ。カネはないかもしれないが。
ということで、フルトヴェングラーの話はどこかにとんでしまったが、カラヤンを非難する人たちというのは、ただでさえ狭いクラシックの世界をさらに狭くしていたと思う。という変な結論に至った。
おわり
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