2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
2012-2013シーズン
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2013年5月24日(金)7:00pm
サントリーホール
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モーツァルト 交響曲第41番 ジュピター
ベートーヴェン 交響曲第3番 エロイカ
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高関健 指揮 日本フィルハーモニー交響楽団
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音楽自らが流れる以上の流れは演奏行為の範疇にはいるからそれは今回はいらない、そのように指揮者が語っているかのような真っ当で格調の高い音楽表現であり、あらためて曲の偉大さをかみしめる結果となりました。素晴らしく聴きごたえのあるものでした。前進する推進力とは異なるもので十二単的な動かずとも多様な音のあやの世界を感じさせてくれる、初めて(モノフォニックでなく)ステレオでエロイカを聴いたのは、たしかワルター&コロンビア響で、あのときの切ればしぶきが飛び散るような新鮮な感動、なにかあれに似たものを感じさせてくれました。
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いまどきこの二本の曲を並べるなどというのは覚えなく、彼としても真正面攻撃しか有りえないという覚悟だと思います。(正面突破)
聴く方も軽くは聴けない。
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というあたりを踏まえて、
ジュピターは唐突ですがチェリビダッケの演奏に似ていました。チェリはソナタ形式への主張が強い表現でものすごくシンフォニック、果ては楽章間のポーズなどもキッチリ間合いをとり、交響曲という造形物を奇を衒うことなく創造していく。だから瞬間よりも演奏が終わった後に、全体を見渡してくれ、どうだいい造りだったろう、そんな感じの演奏がシンフォニーでは実は多い。音が鳴り終わった後に、どうだこの絵いい絵だろう、みたいな感じで作品がそこに屹立しているわけです。
高関の振るジュピターはそのような鳴りの表現でした。聴く方としては音を隈なく全て聴くことができた。チェリもそうだったが、このような表現は楽章間のポーズも含め全体的なアトモスフィアがマイクにはいりきらないもの、装置とは別のところにうったえているそんな演奏なんです。
安全運転と誤解されるところがあるが全然そうではなくオーソドックスの極みの力が存在していることをあらためて教えてくれる。ジュピターのサウンドバランスの良さ、形式の格調の高さ、モーツァルトの傑作、全部あらためておしえていただきました。
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エロイカ、終わってほしくない、どこまでも続いていってほしい、地平線の先に別の地平線があるよう願う。そんな曲、そして演奏。
素晴らしく均整がとれたものでエロイカ作品に相応しい格調の高さを感じさせてくれる。ベートーヴェンの変則打撃音型とか、スケルツォの2拍子の割込みなど、これはこうであってあたりまえみたいな感じで、自然でクール。
新たな地平線をみいだしたエロイカにどぎつさはなく、例えばティンパニなどこれはこういう鳴りでなくてはいけないといった感じで要所を締める締める。見事なエロイカ表現でした。
もしかしてこのような音楽表現行為への喜びを忘れかかっていたのかもしれない(自分)、
激しさよりも均整、波打つよりもバランス、新鮮でした。
高関のスコアの読みはおそらく深くなればなるほど推敲の痕がさらに同じ方向に深まると思われる。自由自在さとは一種異なるものである。どのようなオーケストラを振っても同じ方向の鳴りで、オーケストラの能力が彼のもとでさらされる。もともとこのようなスタイルを持ったオーケストラであれば指揮者と共鳴して一段と高みに向かうということでもある。昔と時代は変わってしまったが、同じオーケストラを振り続けるシステムが必要かもしれない。
おわり