東京における最終公演はこんな感じ。
2006年11月11日(土)6:00P.M.
東京オペラシティ
コンサート・ホール
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ヴェルディ/シチリア島の夕べの祈り序曲
チャイコフスキー/ロココの主題による変奏曲
チェロ、ヨハネス・モーザー
ショスタコーヴィッチ/交響曲第5番
(アンコール)
ドヴォルザーク/スラブ舞曲
ビゼー/アルルの女よりファランドール
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ロリン・マゼール指揮
ニューヨーク・フィルハーモニック
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東京公演の最終日。今日の曲を含めると何曲になるのであろうか。とにかくたくさんの曲を演奏してくれた。
今日は2階席。見晴らしは3階席よりはいいもののやはりこの直方体ホール、横の壁に貼りついたような座席は本当にダメだな。不満をいっても構造が変わるわけではないので今後このホールに来るときは第一に席調べを優先しなくてはならない。サウンドは引き締まっており良い響きを満喫できる席だ。
今日のメインは聴くほうもやるほうもショスタコーヴィッチ。
その前に、ヴェルディのオペラ序曲。
地の底から湧いてくる弦が素晴らしい。ブラスは単刀直入に響いてくるのでイタオペ的味わいは皆無だ。シンフォニックな響きになるのはこのオケとしては当然だ。それでもオペラ・オーケストラと異なりあまりにも高性能であるため、どうしてももう一曲聴きたくなる。そしてもう一曲と。
マゼールもたまにはイタオペ序曲・前奏曲集でもだしてくれれば。このコンビによるイタオペ集は魅力的な演奏になると思う。以前出たメータ、ドミンゴによるコンサートの実況ライブのCDなんか、何度きいても飽きない。
チャイコフスキーのチェリスト、ヨハネス・モーザー。8日、10日、と若いソリストであったが、今日は25,6才であろうか。これでもずいぶんと若いが二十歳、二十歳前といったソリストの後だとなんだか余裕のある人生経験者のように見えてくるから不思議だ。演奏会の数はかなりこなしてきているはずであるからその分だけ、良くも悪くも豊かな経験となっているのであろう。演奏内容もたしかに音楽の細かなニュアンス、ひだのようなものが感じられる。ただそれが意識されたものであり、それが意味のあるものなのか、つまりそれが音楽のその部分でそのようなニュアンスが必然的に必要な箇所であるのか、その辺が少し疑問に感じるところだ。そんなニュアンスならば、それは不要なのではないか。音楽の表現の核心というものは難しいものだ。心の余裕と技術の余裕は似て非なるもの。危険はここに潜む。大きな音楽を目指すのなら、小手先の邪念は取り払わなければならない。安定感のある演奏は捨てがたいものがあるのも事実ではあるが、自分なりの方向性を見出して欲しいものだ。
休憩で、フル装備のオケはその限界に到達する準備を用意周到にしたに違いない。
タコ5。このオーケストラだもの、黙っていても鳴る。そしてエンタメ解釈を極めたマゼールだもの、振らなくても鳴る。
かのロシアでのバーンスタインのタコ5。音楽に政治が少し入り込んだ解釈、周りがそのようにしくんだ時代背景、そのように鳴っていたショスタコーヴィッチは生誕100周年とともにそろそろ忘れ、純粋に音響を楽しもう。バーンスタインだってただ純度の高い演奏を自分の好みで演奏していたに違いない。バーンスタインはマゼールよりももっともっとピュアな人間だった。
ということで、コントラバスの地響きとともに音楽が始まった。まるでブラスである。後方に恐るべきブラス・セクションが配置されているのに負けじと弦のフル強奏がうなった。こまかいニュアンスはいつもなら弦・木管に任されているのに、冒頭の弦は久しぶりにその役目を忘れ、タコ5のトラップに自らを任せていったのであった。
中間部では金管が輝きを増す。ショスタコーヴィッチ特有の短い符が時計の針のように気持ちよく響く。ブラスはクレシェンドしていき、ついには頂点に達し、圧倒的な爆発音が狂気のように響くがピッチには寸分の狂いもない。そしてブラスは果て、再現部がくる。フルートとホルンの掛け合い。マイヤーズは頂点の最高音で少しはずしてしまったが、神にも誤りはあるのであろう。
第2楽章の運動がなければ第3楽章の静寂は来ない。
バーンスタインはこの息の長い第3楽章を、緊張感を保ち、劇的に演奏するすべを知っていた。マゼールはどうであろう。あっさりと始める。エロイカの葬送行進曲と同じように片意地張ることなくすんなりと始める。深刻ぶるところがない。音楽にとりたてて劇的なものを求めない。従って後半から終結部に至る予定調和的な安らぎもない。バーンスタインの、緊張から解放された後の心的安定感は見事であったが、マゼールにそれと同じものを求めても無理がある。息の長い持続する緊張はマゼールが表現するものでもないし、結果として安らぎもない。一見エンタメ風な帰結がマゼールをキュリアスな存在にさせるのかもしれない。全てを知り尽くしたマゼールの悲劇かもしれない。熱狂がなければ劇的なものも到来しないのかもしれない。
第4楽章はブラバンでもひところよく演奏された。この曲を演奏したことのある人ならば一気に終わってしまうのがもったいないと思うかもしれない。構造がわかりやすくまた鳴りもいいのであれこれ考えている間もなく一気呵成だ。
変則拍子も一小節あるのみ。いたってシンプルに突き進む。うなりをあげる弦の嵐、ソロイスティックな金管の活躍を経て、中間部のホルン・ソロもすーっと終わり大団円に向けてクラリネットをはじめとする木管がそろりと動き始める。マゼールはこともなく印象としては平板な感じであっさりしたものだ。マゼールの意識が具現化するのは、譜面が三拍子に変わり緊張感が徐々に高まり、テンポを落としながらクレッシェンドしていき、コーダの開始に到達したときの、木管の何か花開いたようなふっくりふんわりした開始音。これはユニークである。エンタメ系とは違った、当時の現代音楽の息吹のような非常に奇妙でフレッシュな感覚音。マゼールは音の洪水の中、このような見事な表現をたまにする。
あとはゆっくりめのテンポをとった弦の刻みの中、トランペットとトロンボーンが、例の音型を吹奏し、ティンパニは両腕同方向アクションで同じティンパニを早い回転でうちまくる。この動きは若い奏者でなければ出来ないかも知れない。見た目効果的アクション。
ただ、バスドラムが驚天動地の揺さぶりをかけてこないのでホールが揺れ動く感覚を味わうところまではいかない。ブラス、弦、木管、パーカッション、全奏者がすさまじい音響洪水を縦ではなく、ニューヨーク・フィルらしく横の拡がりを構築していき、黄色い音色がステージの上に鋭く横たわる。見事なエンディングである。
腕が鳴り、技術が鳴り、このとんでもない演奏も、我ら聴衆の心ここにあらずの放心状態をよそに、朝飯前のようだった。天下無敵。
アンコールは、ドヴォルザークのスラヴ舞曲と、8日にもやったファランドール。このファランドール。マゼールは指揮をしていない。腕組みをして、どうだすごいだろ、このオーケストラ、とこちらを見ながらうなずいている。たしかにすごいファランドールではある。圧倒的なサウンドと刻みの見事さが聴衆をギブアップさせた。タップなし。
団員がひけても拍手が鳴りやむことはない。10分以上続いただろうか。着替えを済ませたノーネクタイのマゼールが遂にカーテンコールにあらわれた。このコンビでこのような現象は見たことがない。マゼールの天才的暗譜棒とオーケストラの驚異的技術の双方が見事にかみ合い、音楽の頂点を極めた一夜であった。
おわり
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