河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

543- MET5回目のホヴァンシチーナ -2- (改・再掲)

2008-01-25 23:01:00 | 音楽

2

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ニューヨーク・タイムズの評

ホヴァンシチーナ(ホヴァーンシチナ)

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ドナル・ヘナハンは1014日の初日のあと、夜中までの上演で疲れてしまったのか、一日おいて16日にニューヨーク・タイムに評を載せた。

といよりも、夜中までの公演であった為、翌日朝刊に評を載せるのは現実問題、困難である。

あいかわらず、ヘナハンの文章はわかりずらい。

35年ぶりの上演らしいが、そんなことはタイトルに掲げただけで、文中では一言も触れることなく、淡々と内容についてだけ評をしている。

さすがつわものヘナハン。

THE NEW YORK TIMES

WEDNESDAY,OCTOBER 16, 1985

Opera ‘Khovanshchina’

At Met After 35 Years

BY DONAL HENAHAN

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ムソルグスキーの‘ホヴァンシチーナ’は‘ボリス・ゴドゥノフ’に比べて音響的な豪華さが欠けている。しかし、この国でもっと知られるべき作品である。

‘ボリス’のような作品は、作曲者の劇場ニーズに応じいたるところ意欲的に取り組まれており、ロシアの歴史の中で現実的な出来事として扱われている。

プロットはロシア・オペラにとってさえ極めて複雑である。現代レバノンのベイルートで見つけるようなものと同じぐらい混乱したようなもつれ絡まった政治的協力関係や、十文字模様の個人的な忠誠をもってして。

しかし、イマジネーションに作用出来るのはスコアである。アウグスト・エヴァーディンクによる月曜日のメトロポリタン・オペラのように、想像力豊かに舞台化されるとき、‘ホヴァンシチーナ’は全ての障害を克服する。

ほとんどの聴衆が、

帝国ロシア皇帝ツァー(敵たちを殺したピョートル大帝として知られていた)に対して陰謀者の間で、争いのはじめの段階を把握するにたるロシア人たちのこと、

を理解したと考えるぐらいわかりにくいものであった。

しかし、的確な指示演出が演技をわかりやすくする方向に持っていった。エヴァーディンク氏は、プロダクションの巨大な群衆を、オペラの舞台で普段出会うようにではなく手際よくドラマティックな効果をもって巧みに動かした。

気高きドシフェイ(マルティ・タルヴェラ)に導かれた熱狂的な宗派オールド・ビリーバーが、ツァーの軍隊に降伏するより、自分自身を生贄として殺すよう説得されるとき、エヴァーディンク氏は、その最後のシーンで正真正銘の、クーデーターではなくクーデーシアーターを成し遂げた。

まわりの脇役より1フィートか、さらに高くそびえたつタルヴェラ氏は、とても大きな喜びをもって、残忍な大貴族の役にはいっていった同じような同類の巨大な人間でライヴァルにあたいするイワン・ホヴァンスキー役のアーゲ・ホーグランドに対峙した。特に、ペルシャの踊り子と一緒に、驚嘆すべき運動選手のような酔っぱらったバカ騒ぎの部分では。

この二人のバスが顔を突き合わせるとき、成層圏のなかに導かれるようで、教会と国家間の議論が実際のところ高次元であった。(高い場所にあった。)

ネーメ・ヤルヴィはスコアにある特別なデリカシーのために鋭敏な耳で指揮をした。

それはメトロポリタンにより使用され、老練で不規則に広がったドラマのペースが保たれたショスタコーヴィッチのオーケストレーションで消されていない(オリジナル5幕ものがこのプロダクションでは3幕に短縮されている)

ミン・チョー・リーのセットは、イワン・ホヴァンスキーのダイニング・ルーム、-大貴族がおこなったがっしりした装飾が残忍な味を見せることをおそらくは意味している血のように真っ赤な目障りな建物-、のなかの地味で醜い経済的なものとは明確に異なる。

また別の異なったもので奇妙なものもある。西欧化された政治家となったワシリー・ゴリツシン(ヴィースラウ・オックマン)の客間であった。彼の調度品は、ゴリツシンが普段ワインを置くテーブルとして使って、また、魔女マルファとともに彼の占星術にとってある種の祭壇としても使っていた椅子、二つのテーブル、ハープシコード、であった。

なにかほかに悪いロシアの趣味の例はあるか。

マルファ役でメトロポリタン・デビューをしたかつてのソプラノ、ヘルガ・デルネッシュは有無を言わせない演技をし、甲高いメゾに十分な歌の能力をもってこなした。彼女は終幕で力が尽きたように見えたが、持ち直した。あまり重要でない役、お見事な王子アンドレイとしてデニス・グヤスは良好。

しゃべりたてる公的な筆記者役としてアンドレア・ヴェリス。

シャクロヴィティとしてアラン・モンク。

乙女エンマとしてナタリア・ローム。

このプロダクションにはいくつかの奇妙なところがある。本来の弓矢にかわってライフルを運ぶ民兵、ナイフではなくピストルでホヴァンスキーを殺す、アンドレイがマルファを突き刺す時マルファは武器がないままである(彼女は自身の短刀で彼を撃退しようとしたと想像される。それは、この勝気な婦人にとって完全にふさわしいものだ。)

この夜はデイヴィット・スティヴェンダーの壮大な合唱全体がヒーローであった。完全に本物のサウンドであるためにはもう少し深遠なバスが必要だけれども、しかしそれにもかかわらず自分たちの任務を見事に成し遂げた。

ということで、ヘナハンの評を訳すのは限りなくめんどうであるが、劇の内容を知ってしまえば、この程度の訳でも大意はわかるというものだ。

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