河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

0085 コシ・ファン・トゥッテ バイエルン1988 -4-

2006-10-15 00:27:04 | オペラ



 

12月になってますます音に磨きがかかり、指揮者ともどもオペラの連中は腰を落ち着けて仕事をするのが本当に好きだ。あまり動き回らないでこのまま東京に居ついてしまったらどうか。
ということで、この日はこんな感じ。

1988年12月4日(日) 13:30  東京文化会館

モーツァルト 作曲 コシ・ファン・トゥッテ

ジャン・カルロ・メノッテ、プロダクション

フィオルディリージ/ユリア・ヴァラディ
ドラベラ/トゥルデリーゼ・シュミット
デスピーナ/ジュリー・カウフマン
フェランド/ペーター・シュライヤー
グリエルモ/アラン・タイトス
ドン・アルフォンソ/テオ・アダム

ヴォルフガンク・サヴァリッシュ 指揮 バイエルン国立歌劇場

序曲が終わりそのまま第1幕に入るとフィガロのおもむきそのままの感じで進行する。心地よい音楽だ。
オケのメンバーは絞っていると思われるが、サヴァリッシュの棒はやはり重い。というか、低弦を土台にした正三角形の響きは相も変わらずだ。本当にオーソドックス。この音楽づくりだから聴くほうも安心していられるし、舞台への一体感も生まれるというものだ。
音楽の機転に対する配慮はあまりうまくなく、というよりもそのようなことは好まない、とでもいうように、サヴァリッシュは飽くまでも正面突破。彼のモーツァルトは大衆好みではないのかもしれない。
配役は典型的な西洋美学的対称形。そして舞台も意識された左右対称形。このバランスはサヴァリッシュの意識構造とは合うかもしれないが、左右対称のバランスがときたま崩れる美意識の強調のような感覚は、合わないのだろうと思われる。
若い時からの震える左手は、何を求めていたのだろうか。
歌い手は、左右対称・年齢対称とまではいかないが、全く危なげない響きであり、これで演技にもっとウィットがあればさらに良かったかもしれない。テオ・アダムは圧倒的な存在感で、やはりいるだけで黙らせる歌い手はいるものだ。黙らせるのは過去の実績の重さ。そしてそのことをよく知っている日本の聴衆。こんなところにも日本人の文化レベルの高さがあらわれる。

コジの音源は数多あれど、どれか一つ選べ、といわれたらどれを選ぶか。
バレンボイム指揮ベルリン・フィルというのはどうだろうか。
1989年スタジオ録音。
ベルリン・フィルの解像度の良さには唖然とする。透明すぎて裏まで見えそうな音はオペラのオケにはなかなか出せない。ベルリンのイエス・キリスト教会での腰の据わった録音で聴きごたえがある。ライブとは異なるリピートしたくなる音楽が響き渡る。
クベルリ、バルトリ、シュトライト、フルラネット、ロジャース、トムリンソン。
一部モーツァルト的でない人もいるようだが、対の妙、配役はこの音源CDを買えば確かめられる。
あと怖いもの見たさのクレンペラーもあるが、このクレンペラーのCDとバレンボイムのCD、隣り合わせに棚に置いておくと妙にマッチする。しっくりするものがある。
おわり


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