河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1395- ロリン・マゼール、キュッヒル、N響、スクリャービン法悦の詩、チャイコフスキー組曲第3番、グラズノフV協、2012.10.13

2012-10-16 20:49:58 | コンサート

2012年10月13日(土) 6:00pm  NHKホール


チャイコフスキー 組曲第3番

グラズノフ ヴァイオリン協奏曲イ短調Op82
  ヴァイオリン、ライナー・キュッヒル

(アンコール)
バッハ 無伴奏パルティータ第2番BWV1004よりサラバンド

スクリャービン 交響曲第4番 法悦の詩


ロリン・マゼール 指揮 NHK交響楽団


マゼールのN響登場初日公演です。


マゼールには棒がよく似合う。
マゼールの腕や頭から、全ての音符やスコアが丸ごと、N響メンバーに照射されていくよう。理知的な太陽の光が全てを明るくする。
譜面台不要で全ての楽器に隈なく指示していく様は昔から同じだが、やり過ぎはなくなり彼にしては本当に必要にして最小限の動きとなっている。1930年生まれだから全部アンビリーバブルではあるけれど。

ズービン・メータは3.11後のN響との第九演奏ではことが事だっただけに感銘深いものがありました。でも内実はN響の燃え上がらない雰囲気に不満があったようだ。演奏中というよりも練習の段階で既に少しツンとしていると思ったようだ。気持ちが本当に一つになれない、何かがなければ一つになれない、若干気持ちのズレがあったようだ。N響にしてみれば特に変わったことをしているわけではなくで、一見するとツンとすましたように指揮者によってはみえるだけなのかもしれない。
双方変えようがないわけでメータから見ると早い話「あまり好きになれないオーケストラ」だったんだろう。繰り返しますが、演奏自体はことが事だっただけに感銘深いものがありましたけれども。

こうゆうことは多かれ少なかれ知ってはいるが、マゼールが相手だとうまくいくだろう、とうすうす感じていた。マゼールの場合、N響メンバーで誰一人あらゆる面でこの指揮者の上を行く者はいないだろうということを自分たちが肌で感じることの出来る数少ない指揮者のうちの一人だろうね。それも屈辱感なく屈服させられていい指揮者。
こうゆう場合のN響は従順にも力を出す。
また演奏後の日本の奇妙な習慣、プレイヤーが指揮者をオヴェイションし、それを聴衆が崇め奉るといった、金をもらっている者同士が称え合い、金を払っている方が彼ら双方に這いつくばる、お金だけで計れる世界ではないんでしょうけど本当に奇妙な風景ですが、マゼールの場合、媚を売るオケなんかあんまり関心ないというか窮屈、そんな感じ。要は大人の関係ですよ。


チャイコフスキーの組曲第3番は40分を越える大曲。
弦の数がびっくりする大人数で、結局後半2曲目のスクリャービンと同じ。
16+14+12+12+10
でもベースが10本鳴っているのにグィーンとこない。ほかの弦と同じように整理整頓され非常に丁寧に鳴っている。弦64本の整理のされ具合は今まで聴いたことのないもの。
やにっこさも抑制されている。練習不足でこうなったという雰囲気はない。第3,4楽章では抑制から開放された時の響きを実感。垂直的な練習と実演での水平的なプロセスの開放。音楽はこのようにして流れていかなければならない!マゼールの力。
抑制と開放が、弛緩することなく流れる。
ウィンドとブラス、パーカッションもコントロールされ、汚れは皆無。弦の奥からやや硬めに響く。立体的で奥行き感とニュアンスが最高。
素晴らしい演奏でした。
10月29日のNHK音楽祭で鳴るはずのチャイ4はもはやその名演が約束されたも同然。


後半最初の曲、グラズノフのヴァイオリン協奏曲、ライナー・キュッヒルの独奏。意外な選曲のように感じた。たぶんいろいろなところで演奏しているんだろうけど。今、ウィーン国立歌劇場が来日公演を行なっているのでその間での出演といったところかな。
キュッヒルのヴァイオリンは自己主張を思いとどまりウィーン・フィルという極致のアンサンブルに溶け込んでこそ力を発揮するのであろう。そういう意味では、一人よりも、アンサンブルの中で、二人以上の力をだす。実力と伝統、演奏スタイル。技量を隠してオーケストラという個体に溶け込む。
アンコールの独奏における、過度な表現を避け、角がない響、ウィーン・フィルではないですか。
伴奏演奏は一曲目同様メリハリが効いていて、折り目正しく端正でモヤモヤしていない。見通しの良いもの。このようなグラズノフなら聴いてみようと思います。


後半2曲目のスクリャービンの4番。これは3番のように調性を思いっきり響かせる50分の大曲とは、かなり異なる。調性が感じられない。かといって12音階風でもない。いわゆる神秘和音ということだと思いますが、それであればこのあとの5番の方が個人的には馴染める。
ということでこの4番自体、響きがかなりやにっぽい。この曲がマゼールのレパートリーになったのはいつのことだろう。少なくとも昔は演奏していなかったと思う。というかスクリャービン作品の演奏そのものを知らない。(あるな思い出した、4番とアシュケナージのピアノで5番、ピアノ協奏曲。)

マゼールの生は1974年のクリーヴランドとの来日公演以来、たくさん聴いているが、実演でスクリャービンを聴くのはおそらく初めて。
一言で言うと、このやにっこい曲を整理しつくし、非常に見通しの良いものにした。フレーズの切り方、アクセントの置き方、ポイントになるところは全てメリハリ良くし、モヤモヤ感は皆無となった。なんだかグラズノフと同じような感想になりましたけれど、N響の整理され具合が尋常ではない。
むしろ軽くなったとさえ思えるN響サウンドは、ドイツ指揮者のもとでときとしてみせる引きずられるような鈍重な具合もない。遅く出るオーケストラの意味を理解し熟知し、掌握したマゼールならではの分解的解釈。練習では一度、空中分解させてから曲を再構築していったに違いない。プレイヤーから先入観を取り払い、そこから始めた。従ってこの構築美はマゼールのものであるかもしれない。彼以外でこのようにN響をコントロールできる指揮者はこの時代、他にいない。
聴きようによってはマゼールの範囲内でのオーケストラの自発性ということになるかもしれない。普通に聴けばそれで十分。コントロールからの本来の開放は10月29日あたりまで待たないといけないかもしれない。
その間、N響定期をたくさんこなすのでいい具合になっていくと思います。
おわり