1991年の生聴きしたコンサートからピックアップして書いてます。
網羅的な記録ではありません。
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ベルリン・コーミッシェ・オーパーの1991年来日公演では、フィガロの結婚の公演は4回行われました。
3回目の公演に顔を出しました。
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1991年6月23日(日)3:00pm
神奈川県民ホール
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モーツァルト作曲
フィガロの結婚
(ドイツ語による公演)
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伯爵/ロジャー・スメーツ
伯爵夫人/ゲルトルート・オッテンタール
スザンナ/イヴォンヌ・ヴィートシュトゥルック
フィガロ/エルマー・アンドレー
ケルビーノ/クリスチアーネ・エルテル
マルチェリーナ/クリスチアーネ・バッハ=レーア
他
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ハーリー・クプファー・プロダクション
(1988年12月12日プレミエ)
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ロルフ・ロイター指揮
ベルリン・コーミッシェ・オーパー
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フィガロのプロダクションもクプファーによるもの。
これはフェルゼンシュタインのプロダクションに続くものである。
踏襲しているところ、影響を与えているところなどがあるらしいのだが、肝心のフェルゼンシュタインのプロダクションを観たことがない。
クプファーの演出に集中しよう。
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序曲-なにやら幕の向こうにシルエット。
始まる前から混乱しているのか。
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第1幕-これからフィガロとスザンナのものとなる部屋はボロボロ。
伯爵とケルビーノも何やら怪しい。
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第2幕-伯爵夫人はほぼおてんば娘状態。
好きなことを寝そべってクッチャネ。
しかし部屋の作りは完ぺき。
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第3幕-従来の演出の矛盾点を解決した通路口の広間。
ただ、そこで伯爵夫人の偽のつけ文の口述筆記を通路でするために机を運び出す。
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第4幕-伯爵は出番を間違えた大岡越前とは解説がうまい。
フィガロの結婚(たわけた一日)はクプファーの魔術によりエンディング。
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クプファー・マジックはここでも素晴らしい。
1988年プレミエであるから、この1991年当時まだ3年しかたっていない。
上演回数も47回ということでまだ少ない。
フィガロの結婚はストーリーが複雑で、まずは内容をよく理解していなければならない。
何度かこのオペラに足を運んでいなければその妙味はわからない。
その上でのクプファーの演出を理解しなければならない。
つまりはわかっていればさらに面白い演出なわけである。
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フィガロの結婚の演出はあまり重くならないような配慮がうかがえるが、クプファーの演出ということだけでなんとなく重くなる。
重いというよりも、一つ一つの動きに何か全て意味があるように思えてきて始終舞台を見て考え込まなければならないのだ。
その4時間は別に長いものでもなくむしろ充実した時間と感じるから、これはこれでいい。
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コーミッシェ・オーパーの音はどうだろう。
どちらかとスイトナー時代のベルリン・シュターカペレに似てなくもない。
黒い艶が妖しく光る。舞台の色彩がそうなのでさらにそのように感じてしまうのかもしれない。
シュターツカペレよりは線が細い。
大編成のオーケストラで来ているが線が細いとかんじるのはアンサンブルが見事で統率がとれているから。
歌の線ともうまく絡み合っており、指揮者の腕達者がよくわかる。
日常ルーチンワークでのレベルの高さがわかるというもの。
それに合唱が前面に出ており、オーケストラと同じぐらいの強度でもの言う声である。ハイレベルな合唱も聴きもの。
また彼らの動きの演劇性もソロ歌手たちと同じく見事なもの。
フィガロの結婚における歌い手は一言でいってスタイリッシュ。
オペラ歌手にありがちな贅肉ブヨブヨの歌い手はおらず、スタイルがよく動きも敏捷で機敏。観ていて気持ちがいい。
これだけそろった連中なので、低次元のレベル事項は最初からクリアされていて、聴衆はそのあとのことだけ、つまり内容のことだけ集中して見ていればいい。
クプファーの演出はそのような観点では逆に安心して新解釈に没頭できる側面もある。
歌い手の粒は見事にそろい、一人だけ目立つ存在もないかわり、均質な歌技術は気持ちいい。演劇性の強い演出には必須な要件だ。
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このプロダクションをウィーンとかメトとか別の地にもっていくことはできると思うが、このような演劇性の強い演出の場合、歌い手も同じでなければならない。
演出だけ持っていって別の慣れていない(または慣れていないブヨブヨの)歌い手にまかせても、歌は歌えるが動きは無理。
ロシアのキーロフの歌劇場の公演でも同じようなことを感じたことがある。
本当の引っ越し公演というのはこのようなことを言うのであろう。
つづく
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