出版社による紹介。
「ヒューリスティクスを使っていることが人間が理性的であるということ」というギゲレンツァの議論が紹介されてそれがそのまま用いられているが(110頁)、思考を節約する(といえば聞こえはよいが「これまでそうだったから今度もそうだろう」と思考を停止して飛躍させる)ことが、「合理的」乃至「理性的」ということになるのだろうか。
また、冒頭の「理性」の定義がreasonのことを言っているのか、あるいはrationalityのことを言っているのか、すくなくとも私にはよくわからない。一緒に論じているのだとして、それは妥当なのだろうか。
(河出書房新社 2017年2月)
「ヒューリスティクスを使っていることが人間が理性的であるということ」というギゲレンツァの議論が紹介されてそれがそのまま用いられているが(110頁)、思考を節約する(といえば聞こえはよいが「これまでそうだったから今度もそうだろう」と思考を停止して飛躍させる)ことが、「合理的」乃至「理性的」ということになるのだろうか。
また、冒頭の「理性」の定義がreasonのことを言っているのか、あるいはrationalityのことを言っているのか、すくなくとも私にはよくわからない。一緒に論じているのだとして、それは妥当なのだろうか。
(河出書房新社 2017年2月)
http://metapsychology.mentalhelp.net/poc/view_doc.php?type=book&id=2503
In The Greek and the Irrational, first published in 1951, E.R. Dodds (1893 - 1979) investigates the question of whether the ancient Greeks were really insensitive to the presence and importance of nonrational, religious elements in human experience. (下線は引用者)
タイトルとは違い、ここ(書評)では、"irrational"ではなく"nonrational"という語彙(形容)が使用されているのが興味深い。「rationalではない」のではなく、「rational(ity)じたいが存在または機能しない」。
In The Greek and the Irrational, first published in 1951, E.R. Dodds (1893 - 1979) investigates the question of whether the ancient Greeks were really insensitive to the presence and importance of nonrational, religious elements in human experience. (下線は引用者)
タイトルとは違い、ここ(書評)では、"irrational"ではなく"nonrational"という語彙(形容)が使用されているのが興味深い。「rationalではない」のではなく、「rational(ity)じたいが存在または機能しない」。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%82%E8%A8%80%E6%B3%95
一般に分析的言語(孤立語)では迂言法が一般的であり、それ以外の言語(総合的言語)では迂言的でない方法が多くある。
漢語は孤立語だが、分析的ではない。古代漢語はとくに。
現代漢語の例。「炒鱿鱼」(被雇用者を首にする)という表現がある。これは迂言法か? “イカを炒めるように布団を丸めてかたづける”という、表現に至るまでの事象の認識プロセスを考えれば直喩である。だが比喩であることを表現上は明示しないから、隠喩と捉えることもできる。布団を職場と近接するものであるという認識が先立っているのであれば換喩(象徴)になる。それなしなら、寓意とも考えられる。
そもそも西洋語を題材兼対象にして生まれた修辞技法をそのまま非西洋語の同種と見られる現象にあてはめてよいのかと、私は考える。
一般に分析的言語(孤立語)では迂言法が一般的であり、それ以外の言語(総合的言語)では迂言的でない方法が多くある。
漢語は孤立語だが、分析的ではない。古代漢語はとくに。
現代漢語の例。「炒鱿鱼」(被雇用者を首にする)という表現がある。これは迂言法か? “イカを炒めるように布団を丸めてかたづける”という、表現に至るまでの事象の認識プロセスを考えれば直喩である。だが比喩であることを表現上は明示しないから、隠喩と捉えることもできる。布団を職場と近接するものであるという認識が先立っているのであれば換喩(象徴)になる。それなしなら、寓意とも考えられる。
そもそも西洋語を題材兼対象にして生まれた修辞技法をそのまま非西洋語の同種と見られる現象にあてはめてよいのかと、私は考える。
出版社による紹介。
いまごろ読んでいる。とても面白い。もっと早く手にとっていればよかったと思う。厳密な方法論を採る歴史学者の著者も百もご承知であられるとおり、自伝のたぐいはそのままには決して信用できないこともわきまえたうえで。
(中央公論新社 2015年4月)
いまごろ読んでいる。とても面白い。もっと早く手にとっていればよかったと思う。厳密な方法論を採る歴史学者の著者も百もご承知であられるとおり、自伝のたぐいはそのままには決して信用できないこともわきまえたうえで。
(中央公論新社 2015年4月)
出版社による紹介。l
朝鮮王朝は、禁圧すべき対象であるキリスト教について、信徒に棄教させる努力を払うよりも、その数の多寡に構わず残らず処刑することで問題の解決を図るのが常だった由。棄教するとの意思表示があっても殺した記録残っている。次第に下層階級へと拡がっていく現実(つまり上層階級の被治者・庶民への蔑視感情)も関連していたのではないかと著者は推測する。
(中央公論新社 2012年7月)
朝鮮王朝は、禁圧すべき対象であるキリスト教について、信徒に棄教させる努力を払うよりも、その数の多寡に構わず残らず処刑することで問題の解決を図るのが常だった由。棄教するとの意思表示があっても殺した記録残っている。次第に下層階級へと拡がっていく現実(つまり上層階級の被治者・庶民への蔑視感情)も関連していたのではないかと著者は推測する。
(中央公論新社 2012年7月)