書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

サイエンティフィック・アメリカン編 遠山啓監訳 『現代数学の世界』 1 「数と人間」

2017年03月01日 | 数学
 古代エジプト人は数学の問題をすべて試行錯誤で解いたといわれている。 (J・R.・ニューマン「1 リンド文書の謎」19頁)

 それでは解法の説明はできないだろう。していないのではない。そんなものははなから有りはしなかったのだから。

 (講談社 1974年1月)

『北京大学版 中国の文明』 3 「文明の確立と変容(上)」

2017年03月01日 | 地域研究
 出版社による紹介

 魏晋時代の玄学者たちは、自然世界は独立して存在していることの価値と意義を明確に認識し、自然的規律たる「自然の理」はまず自然世界そのものから生まれたと考えました。 (「第五章 魏晋の玄学 第三節 自然と名教」(本書316頁)

 彼らは自然の理の根源性に関する考察を、超自然的造物主と宇宙創生の普遍的法則に関する先秦道家や董仲舒の考察から、自然の事物そのもののの生成・発達・死滅の法則に関する考察へと方向転換させました。
 (同上)

 後半部分も重要だが、前半は、これは大変なことを言っていると、私には思える。個人的には跳びあがるほど驚いている。大冊で詳しいとはいえ、概説本だから仕方がないけれど、この理解と記述に至る論拠となった史料と具体的箇所が示されていないのが非常に残念である。

(潮出版社 2015年7月)

徳島市男性の「曜変茶碗」 化学顔料ほぼ検出されず【徳島ニュース】- 徳島新聞社

2017年03月01日 | その他
 http://www.topics.or.jp/localNews/news/2017/02/2017_14882573150769.html

 かたちは「各論並記」だが・・・。

 1.「魚島教授は『どの色にX線を照射しても、ほぼ同じ成分が検出され、使われた釉(ゆう)薬(やく)は1種類とみられる。この結果が出たことで偽物とは断定できなくなった』と話した。 分析を依頼した橋本さんは『科学的な根拠が持てて納得できた』と言っている」

 2.「一方、陶器は化学顔料が使われた模倣品だと主張していた曜変天目研究家の陶芸家・長江惣吉さん(54)=愛知県瀬戸市=は、今回の分析結果について『これだけでは真贋は分からない。正確な分析に欠かせない器の洗浄が行われておらず、分析方法に疑念も残る』と話した」  

 模倣品である=贋物だだと主張していた論拠が崩れた、つまり自論を証明できなかったということで、此方の負けである。「真贋はわからない」という言葉はまさにそのとおりで、「贋物ではない」ということを意味する。

 3.「沖縄県立芸術大の森達也教授(中国陶磁考古学)は『南宋時代(12~13世紀)の中国・福建省で作られた陶器の成分と比較するなど、総合的な検証が必要。今回の調査で本物とは判断できない』と話した」  

 判断できない=論争の決着はつかないということで、議論は振り出しに戻るという意見である。だが「真贋」とは二分法の概念なので、「贋でなければ真」ということになる。ゆえに論理上は立証責任のある側が立証に盛行しなかったことで「真贋はわからない」のに、現実には本物だとする立場のほうが分が良くなってしまう結果となる。

 いったん議論を仕切り直すというなら、こんどは、後世(18世紀以降)の模倣品である/ないに加えて、それ以前の模倣品である/ないという論点、さらにはそもそも天目である/ないという論点も足したうえで、やりなおすべきではないか。

北原和夫 『プリゴジンの考えてきたこと』

2017年03月01日 | 自然科学
 これまで見て来たように決定論的と思われていた物理学の法則の中に、確率的要素が含まれていることが明らかになってきた。しかし社会科学においては十九世紀の自然科学の影響を受けて、客観的因果関係を追及する方法が主流になってきている。しかしこれからの社会科学は、むしろ人間という観測主体の存在も考慮に入れた判断・決定、つまり予測・価値を含んだ科学の方法をとり入れることが必要になるのではないか。〔中略〕自然科学と人文科学の統合こそ、プリゴジンの若き日の思いであった。 (「7 まとめとして」本書107頁)

 これはいろいろむずかしい問題提起だなと感じられる。これは、下手をすると、例えば本来社会科学ですらない歴史学が、「十九世紀の自然科学の影響を受けて」「客観的因果関係を追及する」のはまだよいが、それが十九世紀の自然科学の水準のままで、しかもそこに加えて、十九世紀すら否定してそれ以前の段階へ戻ろうとする面もないではない二十一世紀の人文科学にもまた引きずられ、その結果、「人間という観測主体の存在も考慮に入れた判断・決定、つまり予測・価値を含んだ科学の方法をとり入れる」途を選んだら、これは大変恐ろしいことになると、私などには思えるからだ。

(岩波書店 1999年4月)

「教育勅語は危険思想か」 池田信夫 blog

2017年03月01日 | 日本史
 http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51992452.html

 国家が国民の内面にまで踏み込んで「これは善いのだ、そう感じろ、思え、これは悪いのだ、そう感じろ、思え」と、個々人の倫理観まで画一化して支配しようとしたのが、当時はさておき現在ではその考えられる後々の結果を含めて問題であると、私などは考えるのだが如何。さらに言えば、小学校かせいぜい中学校で教えるべき一身の躾と一丁前の大人が守るべき社会性のルールとが渾然となっている。しかも後者がやや抽象的なうえに弱い。



朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博󠄁愛衆ニ及󠄁ホシ學ヲ修メ業ヲ習󠄁ヒ以テ智能ヲ啓󠄁發シ德器ヲ成就シ進󠄁テ公󠄁益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵󠄁ヒ一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕󠄁カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺󠄁風ヲ顯彰スルニ足ラン

斯ノ道󠄁ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵󠄁守スヘキ所󠄁
之ヲ古今ニ通󠄁シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕󠄁爾臣民ト俱ニ拳󠄁々服󠄁膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶󠄂幾󠄁フ

明治二十三年十月三十日
御名御璽