書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

ウィキペディア 「プラトンの問題」項 から

2015年01月09日 | 抜き書き
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C

 「〔『プラトンの問題』とは〕人間は経験できることが非常に限られているのに、なぜ経験したこと以上のことを知ることができるのだろうか」との疑問をいう。

 人間は生まれてからわずかな期間で母語をほぼ完全に獲得するようになるが、その間に受ける環境的・言語的刺激は限られたものである。これを「刺激の貧困」という。この刺激の貧困という制約があるにもかかわらず、創造的で豊かな内容を持つ言語知識を獲得できるのはなぜかという問いに答えることが言語研究の最大の課題であるとされる。

 この考えに対して、認知言語学の側からは以下のような反論がある。第一に、養育者から得られる情報を不当に狭義の言語情報に限定しすぎており、ジェスチャーや表情など、具体的な場面から得られる非言語的情報は言われるほど貧困ではない。第二に、この問題は行動主義に基づく学習メカニズムを前提としており、ニューラルネットワークのモデルをもつ脳科学に基づいた学習モデルでは問題とならない。


ウィキペディア「刺激の貧困」項

2015年01月08日 | 人文科学
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%BA%E6%BF%80%E3%81%AE%E8%B2%A7%E5%9B%B0

 ・子供は周囲の人の言葉を聞いて言葉を覚えるが、
   ・日常的な会話は概して短く誤りを含む。情報量が少ない。
   ・子供はどのような言い方が正しいのかを知らず、明示もされない(大人は子供の言い間違いを指摘しない)。
 ・言葉を覚えるのが単なる模倣によるならば誤りも一緒に覚えるはずであるが、
   ・子供は実際には正しく話せている。
   ・生まれたときから言葉を覚えるのに何らかの仕組みがあるのではないか。


 これは仮説である。生成文法論は仮説のうえに仮説を重ねていることになるのか?


今井むつみ 『ことばの学習のパラドックス』

2015年01月08日 | 人文科学
 2010年12月23日「今井むつみ 『ことばと思考』」より続き。

 ことばの意味=内包と外延。「内包(Intension)はある概念がもつ共通な性質のことを指し、外延(extension)は具体的にどんなものがあるかを指すものである」(ウィキペディア「内包と外延」)
 この内包と外延は、人類共通普遍の概念か否か。そうだとして、内包と外延をどちらか、あるいは二つとも欠いた思考もしくは言語は、存在するのか否か。

(共立出版 1997年6月)

五十嵐一 『東方の医と知 イブン・スィーナー研究』

2015年01月07日 | 地域研究
 イブン・スィーナーは、病気の原因を分析・探究するにあたり、アリストテレスの四原因説に厳密に則っている(同書「四体液の四原因論」本書167-168頁)。さらに彼は先達ガレーノスを襲い、起動因から衝撃因を、質料因から先在因と共働因(介在因)の概念を導き出している(同「病の近接因」本書178-179頁。および「病と結縁〔けちえん〕する」182-183頁)。なお五十嵐氏によれば、後の二つは今日の病理学でいうところの素因に近い由(179頁)。

(講談社 1989年11月)

鈴木宏昭 『類似と思考』

2015年01月07日 | 人文科学
 著者は類似(=類推)を、思考(=推論=帰納+演繹)同様、人間の認知機能の一つであり、またこれら類推・帰納・演繹のそれぞれが「記憶」「検索と想起」「カテゴリー化」「例示化」といったより基礎的な認知プロセスの「ある特殊な形の融合」ではないかと説く(「はじめに」viii頁)。類推とは「知りたいこと,あるいはよく知らないことをよく知っていることにたとえて考えることを指す」(「第2章 類推とは」13頁)。つまりまったく同じとは必ずしもいえないが、「比喩」とよく似た心的活動である由。

(共立出版 1996年12月)

「【古典個展】立命館大フェロー・加地伸行 わが家の「踏み絵」に思う」

2015年01月04日 | 東洋史
 『産経ニュース』http://www.sankei.com/life/news/140331/lif1403310012-n1.html

 ことば(観念・普遍)があれば実在するのではない。ことばは実(個物)があってこそのその表現なのである。『荘子』逍遙遊(しょうようゆう)篇に曰(いわ)く「名(ことば)は、実(個物)の賓(ひん)(客)なり(すなわち主人ではない)」と。

 『荘子』内篇にある「逍遙遊」のくだんの条を、福永光司・金谷治両先生の訳注で読み比べて見た。
 ●福永光司『荘子』「内篇」(朝日新聞社1978/7)、44-46頁。
 ●金谷治『荘子』「第一冊 内篇」(岩波書店1971/10)、28-30頁。
 「名者実之賓也」を、福永訳は「名誉などというものは、いうなれば主人(あるじ)のいないお客」としたあと、解説文で「実質の伴わぬ名目」と言い換えている。金谷訳は、「名目というものは実質の客(で、一時的な仮りのもの)」と解している。条全体の翻訳の段階ではすこし方向性が異なるが、「名者実之賓也」一文については、「名」「実」の単語レベルの解釈ともども一致している。

 しかしそれにしても「 日月出矣而爝火不息,其於光也,不亦難乎!」の「難」を「無駄な・徒労の」の意味とするのは、いったいどういう根拠によるものか。対句になっているあとの「労」と同じ意味だという福永訳の説明は、一応の説得力はあるが確証とはいいがたい。金谷訳では馬叙倫の説として「難は癉の借字、労病の意と。下の『労』と同意でむだ骨折」と注す。では馬叙倫の説の正しいことは何をもって担保されるのか。難が癉の借字として使われた例はあるのか。それに、瘅=労病の労は同じ労の字でも疲労(つかれる)の意味で、徒労の労(はたらく)ではない。私に言わせれば馬の説は説としてなりたっていない。

年頭雑感(「コミュニケーション力」とは・・・)

2015年01月02日 | 思考の断片
 「コミュニケーション力」とは、日本語本来のやまとことばに直せば「口八丁手八丁」ではないか。
 『広辞苑』には、「口八丁手八丁」は、「することもしゃべることも達者なこと」と定義してある。本来悪い意味ではない。ところが日本語には「巧言令色」という漢字熟語の同意語があって、その「鮮矣仁(すくなし仁)」のニュアンスが、逆に「口八丁―」の意味に影響していると思える。
 それに関連して思うのは、こんにちの中国語の”方言”である。それらは元来漢語とは別系統の言語である。だがそれらの諸非漢語が、表意文字としての漢字を受容する過程で、漢語の持っていた漢字とそれによって形作られた熟語(つまり概念と表現)をも受け入れていった。そして漢字熟語(漢語の語彙と表現)が、原語の同意語・表現と並立し、あるいは取って代わった(このことは漢字を自分たちの言葉にある発音――その音の本来の意味は関わりなく――を当てて読んだために、それらが本来は借用語であると認識しづらくなっているが)。その結果、借用語の意味とニュアンスが、原語の対応語に影響を与えているのではないか。もしそうであれば、情況は日本語における「口八丁手八丁」「巧言令色」にまつわるそれと同様ではないかと、その相似に思いをはせているところである。
 しかし日本語の場合、こんどは「コミュニケーション力」という新たな借用語(?)の同意語によって、「口八丁手八丁」は、こんどは肯定的なニュアンスを与えられるかもしれない。