杉本つとむ『語源海』の「経済」項を見て 2014年09月07日 | 日本史 日本語の「経済」という言葉は、本来の「経世済民」の原義に明治後に西欧のeconomyほかの訳語として現代専らそうであるところの第二の意味を付与されたのではなく、18世紀にすでにこの用法は出現しており、19世紀前半には現代語とほぼ同質の意味の「経済」が確立していたという。「従来この点はみすごされている」(263頁)。同書はさらに、この用法の成立については同時期の近世(明清代)中国語俗語からの影響も指摘する。 (東京書籍 2005年3月)
谷井陽子 「八旗制度再考(八・完) 新しい秩序の創出」 2014年09月07日 | 東洋史 『天理大学学報』64-2、2013月2月、同誌85-109頁。 ヌルハチ・ホンタイジ期の「法度sajin fafun」は、「個別具体的な法令」でもあり同時に「天が司る」法でもあるという(98頁)。「天が司る」とは」、もしそれが「天が定めた」「天が是とする」という意味であるのなら、王の定める法は何時如何なるときにも天の是とする法と重なっていたのだろうか。それとも誰かが個別具体的的に「それは天が非とする」と指摘しえたのだろうか。非常に興味深い。
小谷汪之 「『戦後歴史学』とその後 新たな『科学的歴史学』の模索へ」 2014年09月05日 | 人文科学 『史潮』新73、2013年7月掲載。 「戦後歴史学」を構成したマルクス主義的歴史学(スターリン主義的発展段階論)と近代主義的史学のいずれもが、「科学主義」のほかに「西洋中心主義」を含有していたが故に批判さるべきだが、「新しい歴史教科書」は科学性すら欠如しているから問題だと筆者は言われる。だが「世界史の基本法則」にはたして科学性はあっただろうか? それは科学性と思いなした信念もしくは信仰ではなかったか。
小谷仲男/菅沼愛語 「南朝正史西戎伝と『魏書』吐谷渾・高昌伝の訳注」 2014年09月05日 | 東洋史 『京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編』12、2013年3月、同誌187-250頁。 訳文も平明だが、注が素晴らしい。まさに訳注、訳文を読む為に必要な知識を補う注である。ともすれば「原文を訳す為の注」になりがちであるのに。これは自戒。
上田信 「一五世紀前半におけるムスリムの海と中国 いわゆる鄭和下西洋をめぐって」 2014年09月05日 | 東洋史 『史学』82-1、2014年3月、同誌31-55頁。 〔鄭〕和が南海遠征に向かった一五世紀世紀初頭は、南シナ界域でイスラームが広がる時期と重なる。『編年史』〔引用者注・ジャワのスマランにある三保廟 Klenteng Sampo で発見されたとされる史料〕の記述が史実をなにがしでも反映しているとしたら、この二つの事象は、たまたま時期が一致したものではなく、和が意図的に海域にハナフィー派〔引用者注・鄭和の家系が属していたと考えられるイスラームの学派〕中国系ムスリムのコミュニティーを扶植し、ネットワークを構築しようと努めた結果、現在に連なるイスラーム世界が南シナ海域に広がる結果となったのだ、ということになる。 (52頁) ただ筆者も認めるように、『編年史』は、その発見時の状況とその後の保管のありかたを含めて、信憑性に疑問がある。
高橋英海 「シリア語からアラビア語、そしてアラビア語からシリア語へ」 2014年09月05日 | 東洋史 『東洋文化』87号、2007年3月、同誌1-21頁。 アッバース朝に盛んとなるギリシア語学問書のアラビア語への翻訳に当たっては、それに先行するシリア語への翻訳の経験とノウハウを持つ人人々(シリア系キリスト教徒)が、シリア語から重訳した場合も多い由。 彼らはすでにシリア語が存在する場合にはアラビア語訳に際してもこれを用い,シリア語が存在しない場合にも,多くの場合,ギリシア語を一度シリア語に訳してからこれをアラビア語に翻訳した。このような理由からこの時代のアラビア語の多くは厳密にはシリア語からの翻訳であり,翻訳の過程を解明するにはシリア語訳についての知見が不可欠となる。 (3頁) のちアラビア語による学問の確立後、この流れは逆転するとのこと。要はアラビア語の広域言語化の結果であろうか。 では、少なくとも学問的にはより先進的であったギリシャ語の学問書翻訳の過程で、シリア語、またアラビア語は、言語としてどのような影響をうけたであろうか。それまでに存在しない単語、概念、あるいは精密な表現というものを対応して編み出さねばならなかったはずであるから。
早田清冷 「満洲語における『黒』を表す色彩語について」 2014年09月05日 | 東洋史 『満族史研究』12、2013年12月、同誌1-26頁。 ずきずきするほど刺激的な論文。 シベ族の歴史から予想される言語環境を元にすると17世紀のシベ語は,仮に満洲語と起源を同じにしていたとしても満洲語よりも相当程度モンゴル語に近い特徴を持った言語であると容易に想像可能である。 (5頁) 現代シベ語は満洲族の方言に見える言語である。 この原因として可能性があるのは18世紀以降の満洲語の影響である。17世紀シベ族の言語はモンゴル語の影響を強く受けた言語であったと思われる。そして,シベ族が18世紀の初めに瀋陽に移住させられてから,このシベ族の集団の言語は満洲語のより強い影響の下にさらされた。その結果として,表面的に満洲語によく似た言語に変化したのかもしれない。しかし,この時期にシベ族の言語が萬主語の強い影響を受けた証拠は間接証拠しか無い。言語学の研究において,このような間接証拠から当時のシベ族の言語について判断することは不可能である。言語上の証拠が必要である。17世紀に威信があった北京の禁旅八旗の満洲語において,人間の言語で最も基本的な色名である「黒」が18世紀の初めまでに sahaliyan から yacin に変化し,その yacin が,(満洲族への帰属意識のある駐防八旗の満洲語のみならず,)シベ族の言語にも伝播したのであれば,18世紀においてシベ族に清朝中央の満洲語の強い影響があったことを示すものになると考えられる。もちろん,シベ語の系統に関する問題はより大きな問題であり,色彩語一つで決着する様なものではない。それでも数少ない重要な手がかりの一つにはなると思われる。 (6頁) 大胆な発想、関連問題領域への周到な目配り、細心の論旨。
井川義次 「イントルチェッタ『中国の哲学者孔子』に関する一考察」 2014年09月05日 | 西洋史 『筑波中国文化論叢』12、1992年、同誌19-38頁。 この論考では、題名に掲げられた当該書中『大学』の翻訳はクプレではなくイントルチェッタになっている(25頁)。参考2014年09月03日、石川文康「ドイツ啓蒙の異世界理解―特にヴォルフの中国哲学評価とカントの場合」。 彼ら〔イントルチェッタやクプレほか〕は第一質料が『太極』に当たると見、それの同義語である『理』および『道』が、ある種の理性ないしは形相であると考え、ひいてはそれが理性(ratio)つまり神のロゴスと重なる部分があるのではないかと考えたのである〔略〕。すなわち『理』は、純粋質料であることは『太極』と等しいものの、むしろ理性ないし形相的な特質を有することに目を向けるべきだとしたのである。 (32頁) だから西欧人の「理」理解は、人によって理性であったりはた物質であったりという分裂した解釈となりえたのかと分かる。
青木隆/佐藤実/仁子寿晴編訳 「訳注『天方性理』巻四」 2014年09月05日 | 東洋史 『中国伊斯蘭思想研究』1、2005年3月、同誌9-217頁。 56頁、「第3章 升降来復図説」の劈頭、 宇宙千頭萬緒之理。(宇宙には理が数え切れないほど無限にある) とあるのを見て魂消ている。文言文の文体と発想の枠内でよくこれが書けたものだと。明を通過した清代の「文言文」(私の言うところの「書面語」)だからかもしれない。