『近代中国における回民コミュニティの経済的・文化的活動』、2013年6月12日水曜日。
インタビューや現地調査の部分ももちろん興味深いが、金天柱『清真釈疑』の内容に関する言及もじつに興味深い。
そのなかで、アッラーを上天に比定しているくだりがある。本書は非ムスリムにたいして、イスラームが奇異なおしえではないこと、むしろきわめて中華の伝統に親和的なおしえであること、さらには儒家よりも、より儒家的であることを説く内容である。儒家よりも儒家的であるというのは、アッラーを上帝とみなし、その上帝ことアッラーに毎日跪拝していることによって担保される。儒家といえども毎日、しかも複数回、上帝に跪拝することはまれであろう。
このくだりには驚いた。なぜなら筆者も指摘するように、「真宰を無極でかたることはそれ以前の回儒、たとえば王岱輿、馬注、劉智いずれにもみえないかんがえかたである」からだ。「『清真釈疑』にみえる無極こそが真宰の実証であるとする」金天柱の主張にたいして、「王岱輿は無極を数一レベルのものとみなして、真一の下位概念においているし、劉智はいわば『有論』として存在論を展開する」。
インタビューや現地調査の部分ももちろん興味深いが、金天柱『清真釈疑』の内容に関する言及もじつに興味深い。
そのなかで、アッラーを上天に比定しているくだりがある。本書は非ムスリムにたいして、イスラームが奇異なおしえではないこと、むしろきわめて中華の伝統に親和的なおしえであること、さらには儒家よりも、より儒家的であることを説く内容である。儒家よりも儒家的であるというのは、アッラーを上帝とみなし、その上帝ことアッラーに毎日跪拝していることによって担保される。儒家といえども毎日、しかも複数回、上帝に跪拝することはまれであろう。
このくだりには驚いた。なぜなら筆者も指摘するように、「真宰を無極でかたることはそれ以前の回儒、たとえば王岱輿、馬注、劉智いずれにもみえないかんがえかたである」からだ。「『清真釈疑』にみえる無極こそが真宰の実証であるとする」金天柱の主張にたいして、「王岱輿は無極を数一レベルのものとみなして、真一の下位概念においているし、劉智はいわば『有論』として存在論を展開する」。