書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

山田慶兒 『気の自然像』

2014年09月19日 | 自然科学
 一般に中国の科学理論は類型化された概念を多用する。〔中略〕これは中国(および中国思想を受容した東アジア)と西洋における理論の構成のしかたの違いを反映している。西洋における論理の厳密さ(定義された概念、演繹的推論など)に代わる役割を果たしたのが、中国では単純な原理にもとづく概念の類型化とその多用であった。そしてそのぞれぞれが、両者の理論における「精密さ」の指標とみなされたのである。両者のひどく異なった理論「体系」がそこに成立する。 (「4 運気論はどう理解されたか(2)」本書36-37頁)

 非常に興味深い。これは中国の科学理論に形式論理は存在しないと言っているのに等しい。ただ帰納の存在は認めているらしい点には留意。

(岩波書店 2002年11月)

石毛忠 「戦国・安土桃山時代の倫理思想 天道思想の展開」

2014年09月19日 | 日本史
 日本思想史研究会編『日本における倫理思想の展開』(吉川弘文館 1965年12月)所収、同書141-168頁。
 
 日本の「天道」理解には倫理性と神秘性の二面が存在し、後者は人間の善悪の観念や願望、行動の結果にはかならずしも一致して応報しない(石毛論文の指摘、150-155頁)。その連関は不可知とされ、もたらされる結果は運命として認識される由。

 戦国武将は眼前の世界を、日月の運行や式の循環のごとく人為を越えた必然と把え、そこに生きる人間の運命をすべて天道の然らしめたものとして、ありのままに承認しようとした。 (150頁)

 以下は同論文を読んでの感想である。
 それに対し中国(儒教)の「(性)理」もしくは「道」は単一である。この世のすべての物事の然るべき所以であると同時にそうあるべき形であり、あらかじめ決まっているところが異なる(具体的には経典および権威ある注釈者の言う事)。性理や道が分からない人間は、ただいまだそれを学んで窮めておらず知らないからにすぎない。
 これを要するに、「理」「道」は100パーセント=正義だが、「天道」即正義ではないということだ。