書籍之海 漂流記

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武田雅哉 「大英博物館を見たふたつの東洋―『米欧回覧実記』と『環游地球新録』」

2013年07月18日 | 東洋史
 田中彰・高田誠二編著『「米欧回覧実記」の学際的研究』(北海道大学出版会、1993年3月)所収、97-111頁。

 ほぼ同時期(1870年代)に大英博物館を訪れ、その記録を残した久米邦武の『米欧回覧実記』と李圭『環游地球新録』の関連記述を比較検討するという非常に興味深い論文。裨益するところ大であった。自分でも双方関連部分の原本を読んでみた。
 武田氏は、叙述の具体性にかんして、李圭に軍配を上げている(「七 ふたつの"漢文”」)。氏はその原因を、久米の漢文脈(漢語をふんだんに用いた漢文訓み下し的文体)は、結局は漢語を母語としない日本人が書いたいわば外国語であり、「勘文脈のもつ情緒・ムードを共通の記号として受容しうる文化のなかにおいてしか、通じない」(107頁)、「臨場感がない」(108頁)水準のものであるところに求めている。
 では「なぜ中国人のほうが博物館の記述に臨場感があるのか」と武田氏は言い、「正直いって、筆者にはわからない」とするも、「その作文において、典拠を頻繁に使用したがる中国人だが、既存の物に置き換えがたいものを目にしたときには、あるいは日本人よりもよっぽどいさぎよく、その伝統を捨て去るのかもしれない」と推測を述べておられる(108頁)。
 
 しかし両方の原書を読んで、とくに後者李圭の著を読んで感じたことだが、ここで考えるべき問題は、ふたつの"漢文”は、はたしておなじ"漢文”なのかということだ。
 久米のそれは、古典漢文を日本語の文法にそって語順をかえて漢文にはない助詞を加えた、いわば変則漢文である。しかしそのベースあるいは本質は古典漢文(文言文・古代漢語)であることに変わりはない。
 しかし李圭のそれは、これは原書に目を通してはじめて解ったことだが(武田氏は論文中現代日本語訳のみで原文は引用されていない)、これは久米のそれと同じ文語の漢語であるにしても(口語=白話文ではないという意味だ)、当時の「書面語」なのである。古典漢文=文言文ではない。
 武田氏は、その違いを考慮されていない。書面語なら、各時代の新規な語彙を取り入れてきたし、各時代の"いま”と現実・実体を写す、伝えるというその存在目的に鑑みても、もともと正確にして具体性に長けるべく在る文体なのであるから、文言文に比べて比喩があまり用いられないのは当然であろう。氏は、比較の対象を誤ったと言える。
 だから、氏がその比較結果からさらに一歩踏み込んで提示する、ベルトルト・ラウファーの主張を援用しての仮説、すなわち「伝統に固執し、すぐれて保守的であるという印象を抱かれている中国人は、実は、たとえそれが好ましいものであっても、伝統を容易に失いやすい傾向をもちあわせているのではないか」は、残念ながら成り立たない。