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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

古畑徹 「唐王朝は渤海をどのように位置づけていたか 中国『東北工程』における『冊封』の理解をめぐって」

2014年09月04日 | 抜き書き
 『唐代史研究』16、2013年8月、38-67頁。

 中国の伝統的な歴史理解では、高句麗は朝鮮史に属し、中国史の一部とは見なされてこなかった。〔中略〕1980年代は高句麗史を中国史に位置づける研究が増加したが、あまり声高に主張されることはなく、歴史学会全体の動向のなかでは非主流的であった。その背景には、伝統的な歴史理解の影響とともに、友好国北朝鮮への配慮があったと考えてよい。ところが1993年8月に開かれた「高句麗文化国際学術討論会」の席上、北朝鮮の著名な歴史学者だる朴時考が、公然と中国の高句麗研究を批判した。また、韓国の学者が新聞紙上でその支持を表明したりもした。〔中略〕中国東北地方の民族形成史研究の中心となっていた孫進己は、この事態を北朝鮮・韓国の学者による「挑戦」と受け止め、高句麗を朝鮮史とする主張は将来中国を侵略するための「反動的侵略史学」だと批判した。〔中略〕この認識は多くの東北地方の研究者に共有され、高句麗史研究の活性化を促すこととなり、それが中央での関心を高め、1996年より中国辺疆史地研究中心が当該問題に関与してくるようになる。彼らは津北地方研究者との交流を深め、次第に連携を強化し、東北三省と共同でプロジェクトを組むところにまで発展させた。これが2002年度の中国社会科学院重大研究課題A類に採択された「東北工程」なのである。
 (45頁)

 「東北工程」という事態の根を洗ってしまえば、こういうことであるらしい。

清水由里子/新免康/鈴木健太郎 『ムハンマド・エミン・ボグラ著「東トルキスタン史」の研究』の抜書

2014年09月04日 | 地域研究
 まず、自民族をテュルク、祖国を東トルキスタンと設定した上で、テュルクの居住地としての東トルキスタン共和国の歴史を、先史時代から著者にとっての現代まで、時間の空隙なく文字通り歴史的に描き出すよう試みている点が注目される。とくにここで指摘しておかねばならないことは、現在の民族区分においてはウイグル人に当たるボグラが、民族主義者として、「ウイグル」ではなく「テュルク」という民族的枠組みに沿って歴史叙述を構築していることである。 (「第1章 『東トルキスタン史』と著者ムハンマド・エミン・ボグラ 第4節 『東トルキスタン史』の基本構成と叙述傾向」 本書15頁)

 民族主義者としての著者の立場が反映されているもう一つの特徴としては、東トルキスタンが通歴史的な固有の領域をもつ「マムラカト」mamlakat として、そしてその民族である東トルキスタン人がその歴史を担うべき主体として設定されていることが挙げられる。マムラカトは「国」「国家」を示す言葉で、『東トルキスタン史』においても、単なる区間的な領域を示す言葉として用いられているわけではなく、ある民族が歴史上の固有の領域としてきた、自律性をともなった地域を意味しているように思われる。東トルキスタンはそのようなマムラカトとして、朝鮮やトルコ、エジプト、シリアなどと同列に置かれている。 (同、本書17頁)

(NIHUプログラム「イスラーム地域研究」東京大学拠点 2007年3月)

 9月5日付記

 マムラカトmamlakatの語が出現、もしくは現在の意味となったのは何時か。

リンスホーテン著 岩生成一・渋沢元則・中村孝志訳注 『東方案内記』

2014年09月04日 | 地域研究
 Jan Huygen van Linschoten

 資料として第1次ではなく第2・第3であることは先行するメンドーサの『シナ大王国誌』(1585)と同じ(そして1595刊の本書では『シナ大王国誌』もその原資料のなかに含まれる)。
 文中、中国と日本については個別に章を立てて記述している(ただし彼自身はどちらへも行っていない)。その一方で、朝鮮・琉球についての言及はまったくない。

(岩波書店 1968年9月)

池田信夫 「『ハト派』が戦争を誘発する」

2014年09月03日 | 政治
 「アゴラ」掲載。

 韓国や中国は「話せばわかる」国ではない。 

 池田氏とは異なる理由で、私はこの結論に同意する。
 以下がその理由である。
 例えばオグデン/リチャーズ『意味の意味』(床並繁訳述 研究社 1958年11月初版)においては、同一律・矛盾律・排中律・選言律・充足理由律が人間の思考の原理とされる。だがこれらはいずれも中国の伝統的な思惟には存在しない。思考が根本的に異なるから、話が通じないのである。お互いに理解できない。
 だがそれは当然のことで、これらの原則は全て西洋(人)のものだからである。
 それではなぜ同じく非西洋でありながら中国・韓国と日本が話が通じないのかといえば、日本人の伝統的・平均的思考はこれら二国よりもある程度もしくはある部分において西洋に類似しているからだろう。
 同じ事が、程度の差はあろうが、チベットとベトナムについても言えるかもしれない。

石川文康 「ドイツ啓蒙の異世界理解―特にヴォルフの中国哲学評価とカントの場合」

2014年09月03日 | 西洋史
 副題「ヨーロッパ的認知カテゴリーの挑戦」。
 中川久定『「一つの世界」の成立とその条件』(国際高等研究所 2007年12月)所収、同書73-91頁。
 本日「堀池信夫『中国哲学とヨーロッパの哲学者』上下、就中下を読後」より続き。
 
 この論考において、石川氏もライプニッツとヴォルフの中国哲学理解について、堀池氏と同様の評価を下している。

 右の『大学』のラテン語文面〔引用者注・「修身斉家治国平天下」のクプレ訳〕の連鎖式にも、明示されているのは明らかに前後関係だけであって、因果関係ではない。それにもかかわらず、ヴォルフの思考過程は充足理由律という『認知カテゴリー』によって原文の真意を汲み取り、そこに因果関係(充足理由の連鎖)を見抜いているのである。とすると、これこそがヨーロッパ的『認知カテゴリー』がかぎりなく『存在のカテゴリー』と一体化した典型例であるといえよう。 (82頁)

 なお同論文によれば、カントは「中庸」の考え方を、「論理学、すなわち『真か偽か』という二者択一が問題になる領域において」、「蓋然性の論理」として取り入れた由(87頁)。
 
 。関連する研究として、堀池信夫総編集『知のユーラシア 1「知は東から」(明治書院 2013年5月)、また中川久定/J.シュローバハ編『十八世紀における他者のイメージ アジアの側から、そしてヨーロッパの側から』(河合文化教育研究所2006/3)あり。これらも大変に興味深い論文集。

 9月23日補注堀池信夫『中国哲学とヨーロッパの哲学者』下では、『中国の哲学者孔子』における『大学』のラテン語訳の訳者は、イントルチェッタになっている。井川義次「イントルチェッタ『中国の哲学者孔子』に関する一考察」およびKnud Lunbaek "The First European Translations of Chinese Historical and Philosophical Works"と同じ。「第六章 中国古典の翻訳紹介と影響 第一節 クープレとイントルチェッタの『中国の哲学者孔子』」同書211頁。

堀池信夫『中国哲学とヨーロッパの哲学者』上下、就中下の読後感

2014年09月03日 | 西洋史
 2014年08月13日「堀池信夫 『中国哲学とヨーロッパの哲学者』 上」より続き。

 イエズス会による経典翻訳、教義紹介以来、ながらく西洋人は、儒教の「理」を、あるいは「理性」「理法」「この世の根本法則」「原因」と見、あるいは「神」とし、また「道」を、「自然法」あるいは「倫理」と看做してきた。それらはすべて、自分たちの尺度にひきよせて解釈したものだった。

(明治書院 2002年2月)

小野和子『明季党社考 東林党と復社』「第三章 東林党の形成過程 第二節 形成過程」を再読しての感想

2014年09月03日 | 東洋史
 2014年08月23日より続き。

 明末、東林党人の頻りに口にした「公」という言葉、たとえば顧允成の「天下の公」の「公」は、具体的には何をもって「公」であるとしたのだろう。顧の「天下の公」は、皇帝位の継承は皇室の私事ではなく国家臣民にも関わる、また関与すべき問題であるという発言のなかで発せられたものだ。また逯中立の「是非の公」の「公」も。何如なる基準を以てそれが是であり非であると断じるのか。その基準が「公」でありえる要件は何か。さらに彼らは自らを「公党」であると自認した。史孟麟曰く、補弼の臣の党は私党、しかし我らは朝廷の公党であると。

(同朋舎 1996年2月)

ヴィクター・J・カッツ著 上野健爾ほか監訳 中根美知代ほか訳 『カッツ 数学の歴史』

2014年09月02日 | 自然科学
 出版社による内容紹介。

 「1.4 1次方程式」、本書21頁。
 
 中国でも,連立1次方程式にも関心を持っており,それを扱うのに二つの基本的なアルゴリズムを用いた。〔中略〕中国人の著者はこのアルゴリズムにどのようにたどり着いたかを説明していない。

 それは知っている。盈不足法である。この解法が『九章算術』にあることも。ただ私は、その事実と「盈不足法」の名だけを知って、その内実を知らなかった。この書で初めて教えられた。「この方法論は,バビロニア人たちが最初にこうかもしれないという解を『推測』し,この推測に調節を加えて正しい解に最終的にたどり着くのと似ており,中国でも線形関係という概念を了解していたことがわかる」 『九章算術』の成立は前1世紀から後2世紀にかけてだが、盈不足法の出現はいつだろう。
 中国の暦法は、紀元前300年頃に西欧のカリポス暦法が伝わって四分暦に進化したという小嶋政雄氏の説がある(「春秋の暦法に就いての試論」)。氏は同時に、バビロニアから六十進法による占星術も伝えられて、それが干支紀日となったのではないかという可能性を指摘しておられる。屋上屋の上にさらに屋を架すことになるが、この時にくだんのアルゴリズムも伝わった可能性はないか。

(共立出版 2005年6月)

追補

 『塩鉄論』に出てくる「散不足」はおそらく「羨(=盈)不足」の誤りだという宮崎市定氏の説がある。この書は前1世紀の出来であるから、この語彙と概念が見えても不思議ではない。さらに言えば「羨不足」は戦国時代の『管子』にも現れるけれども(第73「国蓄」)、この書は最終的な成立が前漢時代までずれこむから古い来歴の根拠とはなりにくい。一部、2012年08月27日「宮崎市定 『中国における奢侈の変遷 羨不足論』(『史学雑誌』51-1、1940年1月)を読み直して」から議論を引き継ぐ。

柴田篤代表 『「天主実義」とその思想的影響に関する研究』

2014年09月02日 | 人文科学
 文部科学省科学研究費補助金研究(2003年度-2005年度)成果報告書、2005年

 同書18-19頁。『天主実義』(1603初刻)は1868年の重刻において原版の「上帝」が「天主」「上主」「主宰」「真主」と改められた(『方豪六十自訂稿』の指摘と注あり)。またおなじリッチ著の『畸人十篇』(1608初刻)については、1847年の重刻で「上帝」「天帝」「天」が「上主」(数カ所「天主」)へと書き換えられていると。
 柴田氏は「『畸人十篇』研究序説」において、この改変を「改竄」と形容しておられる。いずれにせよ、なぜそれが行われたのか、そしてなぜ「上帝」は不可で上述の諸語なら可であったのかを考えることが、次の問題となるのだろう。