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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

福井佳夫 『六朝文体論』

2014年09月13日 | 東洋史
 出版社による内容紹介はこちら
 ここで言う「文体」とは「ジャンル」と「スタイル」のことであるという明快にして斬新な定義がなされる。通常は後者のみをさすであろう。前者を加えたのは、文体――文章の書き手の思考の方向性とそれを表現する語句と文章のテーマを決めるのは「スタイル」だけでなく「ジャンル」も与って力あるという意識があるらしい。より正確に言うとするならば、「ジャンル」が「スタイル」を規定するのである。
 であるから六朝時代の文筆家は、それらによって“作風の使い分け”をした。“作風の使い分け”イコール“ジャンル”と“スタイル”の使い分けである。
 これを私の言葉で言い換えれば、「ジャンル」とは「何を(What?)」、「スタイル」とは「如何に(How?)」であろう。
 この本のなかでも「檄」のジャンルの部分で紹介される、有名な陳琳の曹操をぼろくそに貶した檄(「討曹檄文」)は、檄というジャンルとそのスタイルが然らしめたものである。檄とは、正義を掲げ、それを発揚して仲間を奮起(=激)させ、敵を貶め、意気阻喪させるための「文体」だからだ。そのようにしか書かないし、書けない。だから陳琳の場合でいえば、かれは袁紹に仕えているあいだは激を書けば袁紹の正義を述べたわけで、のち曹操に仕えれば当然曹操の正義を述べるであろう。まったくとは言わないがこの変化は書き手の節操とは関係がない。


 司空曹操:祖父中常侍騰,與左悺、徐璜並作妖孽,饕餮放,傷化虐民。父嵩乞丐,攜養,因贓假位;輿金輦璧,輸貨權門;竊盜鼎司,傾覆重器。操閹遺醜,本無懿;僄狡鋒俠,好亂樂禍。

 其得操首者,封五千戶侯,賞錢五千萬。部曲偏裨將校諸吏降者,勿有所問。廣宣恩信,班揚符賞,布告天下,咸使知聖朝有拘迫之難。如律令。

 つまり、文体がちがえば、取り上げるテーマはもちろん、言いかたも意見も違ってくるということである。たとえ一人の人間であってもである。それが“作風の使い分け”ということである。

(汲古書院 2014年3月)

島田虔次 「黄宗羲・横井小楠・孫文」

2014年09月13日 | 東洋史
 『中国思想史の研究』(京都大学学術出版会 2002年3月初版、2005年4月改装版第1刷、同書635-641頁。
 2014年09月12日、小野和子「孫文が南方熊楠に贈った『原君原臣』について」より続き。

 『明夷待訪録』は「江戸時代の末まで日本に入ってきた形跡はない」(637頁)にも関わらず、横井小楠の「国是三論」における主張は黄のこの著におけるそれと三点で酷似している事実が指摘される。
 その三点とは、

 ①君主の血統主義の否定、
 ②暗愚な君主に対する態度(ただし氏は黄はこの点に関しては言辞が曖昧だが横井ははっきりと取り替えよと言っていると注意する)、
 ③為政者は学校へ赴いて講義を聴き、そこでの議論(=公論)に接しそれを政策に取り入れるべしという提言。

 である。
 島田氏はこの一致をすべて偶然とする。そして儒教の持つ一面の内在的発展による必然の結果という仮説を提示する。

 これは、儒教が民主主義的性格を本来的に持っていたということを何よりもよく示しているのではあるまいか。 (639頁)

 だが私は、②について、黄は別に言葉を濁してはいないと思う。「原君」で、能力のない、あるいは公をおのれの私とはき違えた君主は速やかにそうでない者に位を譲れという旨を言っている。

高橋英海 「古代ギリシア哲学・科学のシリア語世界における受容」

2014年09月13日 | 東洋史
 『歴史学研究』807、2005年10月、同誌162-170頁。
 2014年09月05日、高橋英海 「シリア語からアラビア語、そしてアラビア語からシリア語へ」より続き。

 ギリシア語からシリア語への翻訳は、初期(5世紀-6世紀)には「意訳」もしくは「かなり大雑把な訳」が多く、次第に「より正確な訳が求められるようになり」、6-7世紀には「シリア語のみを読んでも意味をとらえにくいような直訳がめだつようになる」という。さらに8-9世紀になると、「正確さを期しつつも,意味を伝えることに再び重点が置かれるようになり,かなり高度な翻訳技術が見られる」ようになる(166-167頁)。
 そしてその過程で、「もともと,早い時期からギリシア語との接触の中で発展していったシリア語は語彙の面でもギリシア語の強い影響を受け」た。
 翻訳に関して言えば、「意訳の多い早い時期のものは借用語は比較的少ない」。しかし、「より正確な,字義どおりの訳が求められるようになると」、「新たな単語を作りだすか」、「単語を借用」することになった(107頁)。 「〔10世紀末成立のシリア語辞書から窺われる〕シリア語における〔ギリシア語からの〕借用語の多用は,借用語をほとんど受け入れないアラビア語とは対照的である」(同頁)。
 ではアラビア語はシリア語からアラビア語に重訳するに当たって、それまでにない新概念を表すために、それらをことごとく造語したのであろうか。
 ちなみに高橋氏は、翻訳された文献の傾向についてこうも指摘されておられる。「ギリシア語からシリア語に翻訳されたもので皆無なのは純粋な文学作品,我々がギリシア語文学について語るときにその中核となる叙事詩や悲劇なのである」(167頁)。
 その理由として氏は、そこで語られている異教の神々の世界はキリスト教とには受け入れがたかったという事情があるのだろう」と推測されているが、ともあれ、「ギリシアからラテン語を経て西方へ伝わった文化とシリア語、アラビア語という形で東へ伝わったものの間の大きな違いの一つである」(同頁)。
 その差は当然、翻訳者であったところのシリア系キリスト教徒(高橋氏の用語)のみならず、翻訳を受容したシリア語世界およびアラビア語世界の人々が西方とは異なるギリシア観を形作る基礎となったであろう。
 ちなみに、初期のシリア語翻訳が、意訳もしくは大雑把な訳だったというのは、当時のシリア語ではそうとしか訳せなかったからではないか。原書であるギリシャ語のそれに対応する概念も、それを表す語彙もなかったが故に。

 さらにちなみに、チベット大蔵経出現の前後、あるいはその過程――サンスクリット語仏典をチベット語に翻訳するなか――で、チベット語がどれだけ変容したか(語・表現・文の各レベル)のだろう。専門の方の教えを乞いたい。

井上勲 「幕末・維新期における『公議輿論』観念の諸相 近代日本における公権力形成の前史としての試論」」

2014年09月12日 | 日本史
 『思想』609、1975年3月、同誌354-367頁。
 再読

 筆者の論の核心部分に当たると思われる部分を抜き書き。

 「公議輿論」観念のキー観念である「公議」ないし「公論」は、「天」観念の最高規範性の、対内的局面における意味変容形象と考えてよい。 (359頁)

 「公論」判定の社会的基準は、「公論」が「輿論」の支持をうけているか否かにある。 (360頁)

 〔「公議輿論」観念の第二のキー観念である〕「輿論」もまた、「人心」の意味変容形態であると考えてよい。すなわち、「公論」が「開国」の限定的領域における規範となったのと平行して、「輿論」もまた漠然とした社会的動向を意味する「人心」ではなくして、「開国」の構成メンバーの具体的政治意見の意味を帯びてくることになる。 (同頁)

 「公論」と「輿論」との関係は、その前身ともいうべき古典的儒学における天と人心との関係からみちびきだされた。近世末から幕末にかけての統治体制の同様のなかで、朱子学的な、いわば静態的で内静的な「天」の認識方法はその有効性を失い、代るに、「人心」、「勢」等の言葉で形容される状況への認識が重視されていく。この過程で、原始儒教における「天」と「人心」との関係はたとえば、「天は知るべからず。然れども天人一理なるゆえ、衆人の心の向背を以て天を知るべし〔原注16〕」として再認識され、「天」と「人心」とのフィード・バックを前提とする、「天」のいわば動態的認識方法が生まれるに至ったわけである
。 (361頁)

  (16) 山県太華「講孟剳記評語上」『吉田松陰全集』三巻、五二九頁。

 かかる動態的「天」観念の認識方法にたつ政策としての「人材登用」「言路洞開」が、幕政改革、藩政改革の綱領として登場することになる。そして、動態的「天」と「人心」とのフィード・バック関係の系譜に立つ「公議」と「輿論」との関係、とくに制度化形象たる「公議政体」論が、「公議輿論」観念の第三の意味内容をなす。
 (同頁)

Knud Lunbaek, "The First European Translations of Chinese Historical and Philosophical Works"

2014年09月12日 | 西洋史
 Thomas H. C. Lee (ed), "China and Europe: Images and Influences in Sixteenth to Eighteenth Centuries", Chinese Univ Pr., Jun. 1991, pp. 29-43.
 詳細な文献情報はこちら

 イントルチェッタ『中国の哲学者孔子』の『大学』の翻訳者はイントルチェッタであるとしてある(p. 38)。ほか『論語』の一部とおそらくは『中庸』の訳者も。クプレは翻訳作業には関与したかどうかは不明とする。参考として注でクプレ本人の1687年12月4日付けChristian Mentzel宛て手紙にある「自分が中国で研究(study)したのは四書のひとつだけだ」という発言を引いている(No. 12, p. 42)。
 この発言が証拠になるのかどうかはわからない。そのかわりに関与したという積極的な証拠もないらしい。

小野和子 「孫文が南方熊楠に贈った『原君原臣』について」

2014年09月12日 | 東洋史
 『孫文研究』14、1992年10月所収、同誌1-10頁。

 『原君原臣』は黄宗羲『明夷待訪録』の「原君」「原臣」部分の抜粋で、『揚州十日記』『嘉定屠城記』とならび興中会初期の革命宣伝パンフレットの1つ。孫がロンドンで親交のある南方に贈ったものが南方熊楠記念館に残っており、著者はそのコピーを入手した(写真あり)。
 孫は「原君原臣」を読めたのだろうか。『三国志演義』について「孔明六出祁山」の句を引きつつ滔々と語ったという馮自由の証言が紹介されているが、『演義』は白話文である。私は孫の文言文の素養に疑いを持っている。たとえばパンフレットの序文を書いたと筆者が推測する鄭観応の講釈に依ったのではないか。
 ちなみに馮自由は、『原君原臣』はよくわからなかったと述べている。馮は当時十四歳で、しかもあまり勉強好きではなかった少年だから(自分でそう言っている)仕方がないが、しかし孫文は十二歳までしか古典教育を受けていない。彼が馮少年以上に理解できたという証拠はない。
 さらにちなみに同じく馮の回想で面白いのは、「『揚州十日記』は小説として読んだ」と言っていることだ。小野氏はこれを「小説ほどに面白かった」という意味と解釈しておられるが、原文未見ながら、これは文字通りに取るべきではないかと思う。あの作品は一読明らかに誇張と矛盾が甚だしく、到底事実その儘とは認め難い内容であるからだ。

松本ますみ 「<近代の衝撃>と雲南ムスリム知識人」

2014年09月11日 | 東洋史
 副題「存在一性論の普遍思想から近代国家規格のエスニック・アイデンティティへ」。
 『人間文化研究機構連携研究 シンポジウム ユーラシアと日本 境界の形成と認識―移動という視点 報告書』2008年3月、同書90-101頁。

 巻末参考文献表を含め、すべてがたいへん勉強になった。多謝。

岡本弘道 「古琉球期における琉球王国の交易品」

2014年09月11日 | 地域研究
 『人間文化研究機構連携研究 シンポジウム ユーラシアと日本 境界の形成と認識―移動という視点 報告書』2008年3月、同書30-38頁。

 琉球から明への常貢品(通常朝貢の際にかならず献上される朝貢品)は、なぜ馬と硫黄(のちヤコウガイも)だったのだろう。硫黄とヤコウガイは王国内で(前者は硫黄鳥島で)、採れる。馬は最初こそ数十匹だが次第に減って、最後にはわずか2、3匹になってしまう。余程の良馬が育ったのか、それとも前例が格式として固定し、それを踏襲したということなのか。

柳宗元 「天説」

2014年09月11日 | 東洋史
  手持の『唐宋八大家文』に入っていないので、これまで読んだことが無かった。『東方』403(2014年9月)掲載の下定雅弘「柳文研究に大きな突破口」によってその存在を教えらる。多謝。一読興を覚ゆ。

 韓愈謂柳子曰:「若知天之說乎?吾為子言天之說。今夫人有疾痛、倦辱、饑寒甚者,因仰而呼天曰:‘殘民者昌,佑民者殃!’又仰而呼天曰:‘何為使至此極戾也?’若是者,舉不能知天,夫果蓏飲食既壞,蟲生之;人之血氣敗逆壅底,為癰瘍、疣贅、瘺痔,蟲生之;木朽而蠍中,草腐而螢飛,是豈不以壞而後出耶?物壞,蟲由之生;元氣陰陽之壞,人由之生。蟲之生而物益壞,食齧之,攻穴之,蟲之禍物也滋甚。其有能去之者,有功於物者也;繁而息之者,物之仇也。人之壞元氣陰陽也亦滋甚:墾原田,伐山林,鑿泉以井飲,窾墓以送死,而又穴為郾溲,築為牆垣、城郭、台榭、觀遊,疏為川瀆、溝洫、陂池,燧木以燔,革金以熔,陶甄琢磨,悴然使天地萬物不得其情,幸幸衝衝,攻殘敗撓而未嚐息。其為禍元氣陰陽也,不甚於蟲之所為乎?吾意有能殘斯人,使日薄歲削,禍元氣陰陽者滋少,是則有功於天地者也;蓄而息之者,天地之仇也。今夫人舉不能知天,故為是呼且怨也。吾意天聞其呼且怨,則有功者受賞必大矣,其禍焉者受罰亦大矣。子以吾言為何如?」
 柳子曰:「子誠有激而為是耶?則信辯且美矣。吾能終其說。彼上而元者,世謂之天;下而黃者,世謂之地;渾然而中處著,世謂之元氣;寒而署者,世謂之陰陽。是雖大,無異果蓏、癰痔、草木也。假而有能去其攻穴者,是物也,其能有報乎?蕃而息之者,其能有怒乎?天地,大果蓏也;元氣,大癰痔也;陰陽,大草木也,其烏能賞功而罰禍乎?功者自功,禍者自禍,欲望其賞罰者,大謬矣;呼而怨,欲望其哀且仁者,愈大謬矣。子而信子之仁義以遊其內,生而死爾,烏置存亡得喪於果蓏、癰痔、草木耶?
   (『維基文庫』、下線は引用者)

 烏置存亡得喪於果蓏、癰痔、草木耶?
 なんぞ存亡得喪を果蓏、癰痔、草木に置かんや。