2013年06月21日「山脇直司 『社会とどうかかわるか 公共哲学からのヒント 』」および2013年06月25日「林竹二 『林竹二著作集』 5 「開国をめぐって」」より続く。関連する議論箇所を抜書。
正義にかなう社会を正義にかなうものとするのは、その社会が目指す「テロス」すなわち目的や目標ではなく、競合する目的や目標から前もって何かを選ぶことをまさに拒否することなのである。正義にかなう社会は、市民がそれぞれの価値や目標を追求し、かつ他者にも同様の自由を認めることができるような枠組みを。憲法や法律という形で提供しようとする。 (「第3節 リベラリズム、多元主義、コミュニティ」「第23章手続き的共和国と負荷なき自己」「正と善」項、本書235-236頁)
以上のような理想は、正は二つの意味で善に優先するという主張に要約されるかもしれない。正が優先するということは、まず、個人の権利を全体の善のために犠牲にしてはいけないという意味であり(この意味では功利主義と対立する)、次に、そうした権利を規定する正義の原理は善き生についての特定のビジョンを前提としてはいけないという意味である(この意味では目的論的構想全般と対立する)。/これが現代の道徳・政治哲学の大半がとるリベラリズムだ。 (同、236頁)
リベラルの倫理は正の優先を唱え、特定の善の概念を前提としない正義の原理を求める。 (同、「カント哲学の基盤」項、237頁)
ではリベラル(リベラリズム)ではない倫理の正と善の概念、そして正義の原理は?
正はあらゆる経験的目的に優先する基盤を持たなければならない。〔略〕特定の目的を前提としない原理に倒置されるときのみ、自由に自分なりの目的を追求し、かつすべての人に同じ自由を認めることができる。 (同、239頁)
カントは、道徳法則の基礎は主体〔原文傍点〕に見いだされるはずだと考えた。実践理性の客体ではなく、自律的意思を持つことのできる主体にあるというのだ。〔略〕カントが「あらゆる可能な目的の主体そのもの」と呼んだものこそが、正を生じさせることができる。 (同、239頁)
私がそういう種類の主体であり〔原文傍点、以下同じ〕、純粋な実践理性を行使できると保証するものは何だろうか? 実は、厳密に言えば、保証はない。超越論的主体は可能性にすぎない。だが、私が自分自身を自由な道徳的行為者と考えるなら、前提としなければならない可能性だ。 (同、240頁)
最後が「としなければならない」とは、ちょっと弱い。
(筑摩書房 2011年6月)
正義にかなう社会を正義にかなうものとするのは、その社会が目指す「テロス」すなわち目的や目標ではなく、競合する目的や目標から前もって何かを選ぶことをまさに拒否することなのである。正義にかなう社会は、市民がそれぞれの価値や目標を追求し、かつ他者にも同様の自由を認めることができるような枠組みを。憲法や法律という形で提供しようとする。 (「第3節 リベラリズム、多元主義、コミュニティ」「第23章手続き的共和国と負荷なき自己」「正と善」項、本書235-236頁)
以上のような理想は、正は二つの意味で善に優先するという主張に要約されるかもしれない。正が優先するということは、まず、個人の権利を全体の善のために犠牲にしてはいけないという意味であり(この意味では功利主義と対立する)、次に、そうした権利を規定する正義の原理は善き生についての特定のビジョンを前提としてはいけないという意味である(この意味では目的論的構想全般と対立する)。/これが現代の道徳・政治哲学の大半がとるリベラリズムだ。 (同、236頁)
リベラルの倫理は正の優先を唱え、特定の善の概念を前提としない正義の原理を求める。 (同、「カント哲学の基盤」項、237頁)
ではリベラル(リベラリズム)ではない倫理の正と善の概念、そして正義の原理は?
正はあらゆる経験的目的に優先する基盤を持たなければならない。〔略〕特定の目的を前提としない原理に倒置されるときのみ、自由に自分なりの目的を追求し、かつすべての人に同じ自由を認めることができる。 (同、239頁)
カントは、道徳法則の基礎は主体〔原文傍点〕に見いだされるはずだと考えた。実践理性の客体ではなく、自律的意思を持つことのできる主体にあるというのだ。〔略〕カントが「あらゆる可能な目的の主体そのもの」と呼んだものこそが、正を生じさせることができる。 (同、239頁)
私がそういう種類の主体であり〔原文傍点、以下同じ〕、純粋な実践理性を行使できると保証するものは何だろうか? 実は、厳密に言えば、保証はない。超越論的主体は可能性にすぎない。だが、私が自分自身を自由な道徳的行為者と考えるなら、前提としなければならない可能性だ。 (同、240頁)
最後が「としなければならない」とは、ちょっと弱い。
(筑摩書房 2011年6月)