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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

源了円/三上一夫/花立三郎/水野公寿編 『横井小楠のすべて』

2013年06月21日 | 日本史
 横井を殺した刺客の一人、柳田直蔵が持っていた「斬奸状」には、

 今般夷賊に同心し天主教を海内に蔓延せしめんとす。 (水野公寿「不慮の最期」本書168頁)

 という、横井の"罪状”が挙げられていた。まったくの事実無根であった。
 「斬奸状」は、以下のように続く。

 邪教蔓延し候節は皇国は外夷の有と相成候事顕然なり。〔略〕売国之姦要路に塞り居候時は前条の次第に立至候故不得已加天誅者〔やむをえずてんちゅうをくわえるもの〕也  天下有志 (同上)

 天下有志と云い、愛国者と云い、時代と名乗りは変わっても、言うことはよく似ている。
 
(新人物往来社 1998年3月)

藪内清訳注 『墨子』

2013年06月20日 | 東洋史
 再読。大学の講義中、中国の論理について訊ねられて答えたのだが、その場に『墨子』がなかったので、帰ってきてあらためて調べた。孫詒譲の『墨子間詁』を看、ついでこの訳注を見る。
 墨家の論理学が説かれているとされるのは「経篇」「経説篇」(正確にはそれぞれ上下に分かれる)だが、藪内先生の訳を見ても解らない。論理学と言うが、個別の用語の定義(とされるもの)が並んでいるだけで、背後にある筈の体系が掴めない。突如凹凸鏡の原理が出てくるところなど意図が全然不明である。文脈というものがないのである。
 本当にこれは用語の定義なのか。そして凹凸鏡の原理の話なのか。
 孫詒譲の『墨子間詁』を読んでも、この二篇は、全く解らない。
 孫の注釈が原文からかけ離れて飛躍がありすぎるからである。そしてその論拠は薄弱である。根拠として自身が挙げる他の用例も、判断材料として引かれる諸家の説も同様である。
 これは本当に論理学の内容なのだろうかとさえ思える。
 孫は自分の問題意識と目的とへ、『墨子』の「経篇」「経説篇」を、無理矢理引きつけて解釈していないか。西洋の形式論理学を初めとする科学が、わが中国にも本来あったのだ、だからわが国人よ自信を持てと主張するために。
 そもそも漢時代以降、墨子の学は衰滅し、その経典としての『墨子』も顧みられなくなり、読まれなくなるとともに、かろうじて筆写されて伝わっていたテキストには、次第に錯簡脱落が生じてゆき、清時代に考証学が興隆してまた『墨子』が史料として研究対象となった時には、文章の混乱が著しくなっていた。この二篇は、とくにその弊が甚だしく、最初はとうてい読めない状態だった。それを幾人かの先人の考証を経て、孫がそれを集大成したのだが、彼は、これはもと上下二段に分かち書きされていたものを、後生の筆写の際に誤って上段行から下段行へ続けてしまったためだとして、全文の語順を総入替した。
 さらにその際、自分の判断で内容を幾つもの段落に分割した。ついで、本来別章として独立していた「経説篇」を、これも同じように大幅に再編成の上、「経篇」の解説文だとして、これも自分の判断で、寸断して「経篇」の各段落の後に配した。この過程で既に、先に触れた自身の先入主による恣意が入りこんではいなかったか。
 ちなみに、大正時代に出た有朋堂文庫の塚本哲三編『墨子』は、「解題」(小柳司気太)において『墨子間詁』の名を挙げながら、「難解」という理由で、本文中の「経篇」「経説篇」では編者による訓点を施した原文だけで、他の篇のような訓み下し文や注釈は一切付さない。孫の解釈を信用していなかったのではないか。

(平凡社 1996年4月)

江後迪子 『信長のおもてなし 中世食べもの百科』

2013年06月16日 | 日本史
 「信長の~」はキャッチコピーで、副題こそが本題。
 大盤振る舞いの「大盤」がもとは「垸飯」(おうばん・中世の食膳の形式の一つ)であったこと、サツマイモ(唐芋)の名前が、15世紀末(『山科家礼記』長享2/1488年および翌1499年条)に見えることを知る(本書59頁)。筆者によれば、一般にはコロンブスが新大陸1526年に発見、日本(本土)へはウイリアム・アダムズ(三浦按針)が1615/元和元年に伝えたといわれているそうなので(本書137頁)、これには驚いた。ではどこから日本へと伝わったのだろう。もっとも著者はそうは思っていないようだが、これは同じ名でも別のものだったという可能性も考えるべきではないか。

(吉川弘文館 2007年9月)

山脇直司ほか編 『現代日本のパブリック・フィロソフィ』

2013年06月14日 | 社会科学
 冒頭山脇氏「パブリック・フィロソフィの再構想――学問論的展望のために――」しか解らなかった。その山脇論文にせよ、パブリック・フィロソフィの定義が明確に描かれているわけではなく、つまりは公共哲学とは何ぞやから始まる私のような初心者の読むべき本ではないのであった。内容も、あとはいきなり各論になっている。難しすぎる。

(新世社 1998年10月)

栂井義雄 『日本産業・企業史概説』

2013年06月13日 | 日本史
 明治初年から戦後昭和30年ごろまでの歴史。とても明晰で面白い。巻末に索引がないのがやや難だが、それほど大部の本ではないし(240頁余)、何より目次の章節項が、内容を細かすぎずしかし的確に表していて、さして不便には感じない。とにかくとても役に立ったし、これからも立ってくれるだろう。特に中国の同種の歴史と比較する上で。

(税務経理協会 1969年4月)

 6月14日附記。
 以下、ツイッターの関係文をまとめて転載しておく。自身の備忘のため。

 トーマス・L・ケネディ『中国軍事工業の近代化』(細見和弘訳、昭和堂2013/4)で引かれているので読んでみた。栂井著は日本の官民双方の産業・企業史なのだが、ケネディ本は、ほぼ官のみである。日本の産業は日清戦争後、明治30年前後からおおいに飛躍すると、栂井氏は説くのだが、つまり中国の産業は、官主導の段階から民への委譲(日本の場合は分野業種選択的払い下げの形態を取った)の段階へ至る前(つまりそれを可能にする民力が培われる前)に、日清戦争でその試みが頓挫してしまったということなのか。
 それからもう一つ、この日清戦争後の日本の産業(およびその基盤)の急激な整備・発達の基礎には、清朝から受け取った莫大な額の賠償金があったことも忘れてはならない。清朝の産業・企業にはこれがなかったし、却ってそのための資源を奪われたのである。

三上次男 『金史研究』 3 「金代政治・社会の研究」

2013年06月12日 | 東洋史
 「女真人の支配する漢人国家金」(「第三章 世宗の統治」「第一節 漢人の統御」本書415頁)。
 そうなのか。根拠が全三巻のどこにもない。
 この人は各論は詳しいが――とくに専門の猛安・謀克制については詳細にして緻密である――、なぜ猛安・謀克制が金史研究で重要なのかの説明も曖昧だし、そもそも金史全体のなかでの謀安・謀克制の位置についても通り一遍の説明しかない。第二巻は「金代政治制度の研究」で、制度史の研究であって、例えば遼代史研究の島田正郎氏のように、政治体制だけではなく礼制(国家儀礼)の研究の結果としての、遼は国家存立の理念において契丹人の国家であるというような、論理があるわけでもない(ちなみにこの全三巻の『金史研究』には礼制に関する研究はまったくない)。
 金代史のほかの研究(叙述)と猛安・謀克制に関するそれが、断絶している。好きでこのテーマを選んでやっていたから全体での位置づけがわからなかったというなら、蛸壺学者としてはまだしも、猛安・謀克制の研究が本当に好きだったのかと疑わしくなるくらい、筆致に熱意が感じられない。周到な仕事ではあるのだが。

(中央公論美術出版 1973年3月)

原田禹雄 『明代琉球資料集成』

2013年06月10日 | 地域研究
 謝肇淛が『五雑組』(万暦44・1616年刊)で、琉球が日本と明に両属していることを指摘していたことを知る。ということは、この事実は琉球に臨する福建の官吏軍人やその報告を受けていた北京の宮廷だけでなく、一般の明国人士にも広く知られていたということだ。

(榕樹書林 2005年1月)

弁蓮社袋中著 原田禹雄訳注 『琉球神道記』

2013年06月09日 | 地域研究
 琉球の仏教・神道事情につき、17世紀初頭に琉球で滞在・布教した浄土宗の倭人僧が、時代柄、当然ながら神仏習合の観点に基づいて著した書。原文は漢字カナ交じり文。内容は、当時の琉球習俗についての言及もあって面白い。筆者の名と行跡及びこの書の名は、『中山世譜』『球陽』など琉球の正史に載っている。私などそちらの方で先ず知った。

(榕樹書林 2001年7月)