書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

「伝統衣装『漢服』への認識薄い現代中国人=和服と間違え罵倒する人も―中国誌」 から

2009年05月13日 | 抜き書き
▲「レコードチャイナ」2009-05-13 12:55:58、(翻訳・編集/KT)。 (部分)
 〈http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=31325

 ある漢服愛好者は「和服はもともと唐代の衣装が伝わったもの。韓国の伝統衣装も中国の唐、宋、明の衣装が伝わったものです。日本人や韓国人が漢服を見て自国の衣装と間違えることはないでしょうが、中国人が漢服だと気づくことはほとんどありません」と嘆いた。

 非漢族中国人なら当然かも。

無題(ある対比)

2009年05月12日 | 抜き書き
▲「聯合ニュース」2009/05/12 10:34 KST、「『日本海』表記はミス、NYタイムズ紙に全面広告」
 〈http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2009/05/12/0400000000AJP20090512000600882.HTML

 「この世に日本海というものはなく、日本海は歴史を歪曲(わいきょく)しようとする日本政府の考えの中にだけ存在する」 (韓国広報専門家・誠信女子大学客員教授ソ・ギョンドク氏)
 
▲「Chosun Online 朝鮮日報日本語版」2009/05/12 12:06:04、「【コラム】祝福の歴史と怨念の歴史(下)」
 〈http://www.chosunonline.com/news/20090512000043

 「祝福の歴史」と「怨念の歴史」は祖先が作った過去ではなく、現代を生きるわれわれが作る現実なのだ。 (東京=鮮于鉦〈ソンウ・ジョン〉特派員)

ヴィクトル・ユゴー著 辻昶訳 『ヴィクトル・ユゴー文学館 6 九十三年』

2009年05月11日 | 文学
 シムールダンは、もともとかたくなな素朴さをもっていたから、真理に仕えるためになら、どんなことをしても正しいのだと信じていた。 (「第二部 パリ」 本書111頁)  

 アナトール・フランス『神々は渇く』と、どちらが面白い?

(潮出版社 2000年6月)

Восстановление или возвращение?

2009年05月10日 | 西洋史
▲「ИТАР-ТАСС」09.05.2009, 13.52, "Россия торжественно отметила День Победы в Великой Отечественной войне" (部分)
 〈http://www.itar-tass.com/level2.html?NewsID=13921070&PageNum=0

   Праздник Победы, начавшись на Дальнем Востоке, продолжает шествие по городам России - его отмечают парадами, митингами и другими мероприятиями в честь воинов-победителей.

   ВЕЛИКИЙ НОВГОРОД впервые встретил День Победы в почетном статусе - "Город воинской славы". У мемориального комплекса, посвященного героям- освободителям, в Новгородском кремле прошел многолюдный митинг, на котором ветераны и молодежь говорили о сохранении памяти героев, о патриотическом воспитании юного поколения.

   Все улицы города Первого салюта и воинской славы - ОРЛА в красочном убранстве, везде слышна музыка, проходят выступления творческих коллективов. С самого утра многие горожане направились к главной площади города, чтобы посмотреть праздничный парад войск Орловского гарнизона. Затем начался большой концерт "Дадим шар земной детям!".

   Великая русь родная! - и чего же более?
   Американсий журнал «Тайм» пишет: "But as Russians celebrate their victory over the Nazis, they may also be celebrating the defeat of freedom of speech.", но если это то, что они желают, что я могу ещё сказать?

板倉聖宣 『原子論の歴史 (下)』 から

2009年05月09日 | 抜き書き
 もしもいま何か大異変が起こって、科学的知識が全部なくなってしまい、たった一つの文章だけしか次の時代の生物に伝えられないということになったら、最小の語数で最大の情報を与えるのはどんなことだろうか。私の考えでは、それは原子仮説(原子事実、その他、好きな名前でよんでよい)だろうと思う。すなわち、すべてのものはアトム――永久に動きまわっている小さな粒で、近い距離では互いに引き合うが、あまり近付くと互いに反撥する――からできている、というのである。これに少しの洞察と思考とを加えるならば、この文のなかに、我々の自然界に関して実に膨大な情報量が含まれていることがわかる。 (下巻最終章「原子論の最後の最後の勝利」、本書159-150頁。『ファインマン物理学 Ⅰ 力学』からの引用)

(仮説社 2004年4月)

佐藤三郎 『中国人の見た明治日本 東遊日記の研究』

2009年05月09日 | 東洋史
 明治時代の日本を訪れた中国人(外交官・知識人・留学生等)の手になる日記・旅行記・ガイドブックの紹介。
 王之春『談瀛録』の抄訳あり、内容を確認す。
 王之春を日本へ送り込んだ両江総督沈保は、琉球処分をはじめとする日本の対中強硬姿勢の背後には当時中国を東北および西北部から脅かしていたロシアの教唆があると「想像」する中国政府内の一派に属していた。

 〔明治十二年〕当時の中国は日本の国力をさほど高くは評価していず、中国として警戒すべきは、日本との戦争よりはむしろ、日本の背後にあると想像していた北隣の強国帝政ロシアで、琉球問題を契機としてロシアとの間に紛争を生ずることこそが重大であると見る考え方も強かった。 (「第4章 王之春『談瀛録』」 本書66頁)

 「江蘇・浙江・江西の三省を統括する両江総督の要職にあり、兼ねて南洋通商大臣でもあった沈保はその有力な一人であり、強国ロシアに対抗するためには、中国は日本を討つべきであり、そのためにはまず日本の実地に臨んでその軍備程度と国内情勢とを十分に探索する必要があると考え」ていたところに、自ら志願してきたのが王之春だったという(本書66-67頁、『談瀛録』彭玉麟の序文)。

 日本がロシアと密かに結び、その後押しを受けているという見方に、果たして具体的な根拠はあったのか否か。

(東方書店 2003年11月)

諏訪哲郎編 『現代中国の構図』から ②

2009年05月08日 | 抜き書き
 一九六九年一一月の佐藤・ニクソン声明が、韓国の安全とともに台湾の安全が日本の安全にとって重要だと述べたことは、中国側に警戒心を抱かせた。七〇年四月、周首相のピョンヤン訪問は「日本軍国主義がすでに復活した」という中国・朝鮮の認識を示すものであった。日本がアメリカに追随していると認識する中国は、まずアメリカに接近した。同時にアメリカ帝国主義による日本軍国主義の復活という中国の論調は影をひそめた。中国は七一年後半ごろから日本「軍国主義」批判を止め、日中友好を提唱した。「北方領土」問題についても、ソ連に反対する立場から日本を支持するようになった (斉藤孝「第Ⅴ章 国際関係における中国」 本書170頁)

 わかりやすい説明である。
 つまり、中国は米国と仲が悪くなると米国と同時にその属国とみなす日本に対する批判を強め、米国との関係が修復されると(あるいはしたい時には)、日本批判を控えたり、日本賛美を行うということだ。
 だがこれ以外にも、米国と日本の関係を疎遠にしたい場合に日本賛美が行われることもあるだろう。もっとも要は、中国政府は日本それ自体にほとんど関心はないということである。
 中国政府の対日政策は、自国の安全保障の観点からするその孤立・弱化による中立化、できれば経済力を保持したままでの属国化が目標、それが“友好”の究極の意味、と考えておくのが無難であろう。

(古今書院 1987年5月)

曹長青 「中国人的自由運動,応従否定五四運動開始」 から

2009年05月07日 | 抜き書き
▲「曹長青網站」2009-05-04、「中国人的自由运动,应从否定五四运动开始」 (部分)
 〈http://caochangqing.com/gb/newsdisp.php?News_ID=1899

  五四运动的两个主要口号“反帝反封建”更是把中国带向歧途。反帝,导致盲目排外、拒绝西方文明。把一切过错都推给西方列强,煽动义和团式封闭排外,而回避了真正的自身反省。今天人们看得更清楚,中国的问题主要出在自身∶传统文化中缺乏自由、尊严、个人权利等价值。成为一代代封建王朝御用文化的儒家文化,是根植在集体主义价值基础之上的。在一个极需引进西方个人主义思想、个人权利意识,从根基上反省中国落後的原因之际,中国知识份子却去煽动反帝,排斥和拒绝西方的先进制度。这场“反帝”煽动起来的民族主义狂热,至今仍是共产党继续一党专制的灵丹妙药,因为民族主义既是共产党热衷的集体主义、集权主义的最坚实基础,也是最有力工具。他们以此排斥西方文明、建立党天下,用“我们和他们”、“中国和外国”的对立,来混淆正确和错误,真实和虚假。 (太字は引用者)

 中国近代史の著名な人物(知識人・思想家)では胡適と陳独秀がいちばん個人主義を理解尊重していると思っていたが、曹氏によればそうではないとのこと。

  正因为反封建这个口号,除了反掉了哪个文化中都有的基本的人类行为准则和操守等,却没有触动集体主义、集权主义这个最重要的根基,所以当同样是建立在集体主义、集权主义基础上的马克思主义被引进中国之後,几乎没有受到理论上的任何挑战,立刻在知识分子中得到了一拍即合的广泛呼应;甚至连胡适都是反对资本主义,支持社会主义的。更不要说当时以及後来的中国文化名人们,几乎异口同声都是主张国有经济,反对私有财产、市场经济这些保护个人权利的根本。所以反封建这个口号,只反掉了传统文化中的部分道伦理,却在事实上千百倍地强化了封建主义的根基。

  反封建,则更有迷惑性。既然中国传统文化中有封建糟粕,怎麽能不反呢?但陈独秀们的反法,只是反了表层和枝干,在反了裹小脚、包办婚姻之类的同时,反掉了许多人类共识的基本道礼仪,却没有反传统文化中的真正核心价值∶集体主义,集权主义,反而强化了这个部分。这就像毛泽东发动的文革,也是高喊“反四旧 ”,要打到孔家店。其结果是∶在摧毁了人类基本道准则的同时,比过去更加倍地泯灭个体价值,因此更强化了国家和集体权力,最後比任何一个朝廷的皇帝都更加暴政。

→2009年04月29日、「上田信 『伝統中国 〈盆地〉〈宗族〉にみる明清時代』 から

「NHKに露骨に圧力をかける自民党右派議員たち、中国共産党を真似たのか?w」 から

2009年05月03日 | 抜き書き
▲「むじな@台湾よろず批評ブログ」2009-05-02 22:06:07。 (部分)
 〈http://blog.goo.ne.jp/mujinatw/e/de256d788afc00b80d3bcbc53991baf1

 それは、公共放送には、選挙民主主義ではオミットされがちな少数者などの立場を公共性の原則から掬いとるという義務があるからであり、そういう意味では、NHKのその番組が自民党右派から嫌われたということは、NHKがむしろBBCなどの公共放送の常道に立っていることを証明するものといえる。 (太字は引用者)

 現在自民党政権しかも町村派が主流の右派政権なのだから、彼らから嫌われるような視点を提供することは、日本全体としてはバランスをとることになる。それこそが公共性という意味であって、バランスを考えないで「公共放送として許されるべきものではない」という主張は、体制を牛耳る右派の傲慢だ。
 右派が少数側の北欧なら、右派の主張を取り上げることを公共性という。

 なるほど、公共放送が反体制である理由は制度的なものか。彼らは社会のバランサーとして、政府の施策を批判しなればならないということか。たとえそれが「小さな物語」にすぎなくても。

 →▲「池田信夫 blog」2008-11-24、「『意味づけ』の病」 (部分)
 〈http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/a95ecf70c70c69888be3d34b551df7da

 1990年代から、このような「物語」づくりが顕著になったのは、おそらく偶然ではない。かつては資本主義と社会主義という大きな物語があり、各メディアは自社の方針に沿って主張すればよかったが、社会主義が崩壊してから「革新勢力」の依拠した物語が失われてしまった。そこで彼らは「格差社会」とか「コンピュータによる人間疎外」とかいう小さな物語をつむいで、反体制のポーズを守ろうとしているのである。

諏訪哲郎編 『現代中国の構図』 から

2009年05月02日 | 抜き書き
 甲骨文字で書かれた言語が周代以後の漢語と同じものだったのか、近いものだったのかということもはっきりとはわかっていない。甲骨文字の中の音符の使い方を見ると漢字のそれとそう違っていないので、甲骨文字で書かれた言語が周の時代の言語とそれほど違っていたとは思われないが、はっきりしたことはわからない。例えばギリシャを征服したローマ人はギリシャの高い文化とともにギリシャ語の単語を多数吸収したため、ラテン語の中には多くのギリシャ語がはいっている。しかし、それではギリシャ語とラテン語が同じかというとそうはいえない。甲骨文字で書かれている言語と周の漢語の間にもこのギリシャ語とラテン語のような関係があったことを充分考えられることであり、甲骨文字で書かれた言語はまだこれからの解明に待つところがたくさんある。 (橋本萬太郎「第Ⅲ章 民族と言語」 本書65頁)

 長江の北では、例えばオンドリは公鶏、メンドリは母鶏といっているが、長江の南に行くと、オンドリは鶏公、メンドリは鶏母という。タイ系の言語や南アジア系の言語の一部では形容詞は名詞の後にくるのが原則で、この鶏公、鶏母という言い方はその名残りであると考えられる。 (橋本萬太郎「第Ⅲ章 民族と言語」 本書75頁)

 唐の都長安で日本の留学生が学び始める前には、中国では「たべる」ことを「食」といっていたが、一〇世紀ごろを境として「喫」というように変わった。同様に同じ時期に「のむ」ことも「飲」から「喝」に変り、「いぬ」が「犬」から「狗」、「め」が「目」から「眼」に変っている。このような文化的な拘束を受けない(カルチュラリー・アンバウンド)、自然環境や社会組織が変っても変える必要のない言葉が大きく変ったということは、大規模な人の移動があったことによるはずであるが、東アジアの歴史を研究している人たちは、このことをまだあまり具体的には明らかにしていない。〔中略〕基本的な単語が変るという、世界の言語史のうえでもあまり例のない事態が起こっていることから見ると、相当な規模の社会変動があったと推定できる。/日本の歴史にも似たような例が一つある。日本語には、かつて過去の助動詞と完了の助動詞があったが、現在の日本語には昔の完了の助動詞からきた「た」一つしかなくなっている。この変化がいつ頃起こったかについては、応仁の乱の頃という説が有力である。 (橋本萬太郎「第Ⅲ章 民族と言語」 本書80-81頁)

(古今書院 1987年5月)