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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

本気なのだろうか

2017年12月14日 | 思考の断片
 「近世近代の和歌が現代の我々に解りやすいのは中世の和歌よりも合理的な精神に則っているからで、その合理的精神の由って来たる所は朱子学で、朱子学は合理的だからである」(要旨)という、たかがこれしきの長さの言説で「理」という言葉を二つの意味で使うという、じつに驚嘆すべき議論を和歌史の専門家の専著に見た。現代日本とその言語の「合理」の“理reason, rationality”と、朱子の言う理(理気二元論の“理”)は、表記する漢字が同じだけで内容として異なるだろう。
 この論法は、例えば、ヨーロッパの封建制は、日本(語)ではfeudalismの翻訳語として中国古代にやや類似した存在した風習を意味する「封建」という漢語で用いられることになったのだが、それを見た漢語話者(具体的には中国人)が、「封建」という文字を使っているから西洋のfeudalismと同じものが中国の歴史上にもあったと議論を組み立てるようなものである。それが間違っていること、言うまでもない。