書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

乃木希典 「復命書」

2010年09月29日 | その他
http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/dic/data/3rdARMY.html〉(全)

臣希典
明治三十七年五月第三軍司令官タルノ大命ヲ拜シ旅順要塞ノ攻略ニ任ジ六月劍山ヲ拔キ七月敵ノ逆襲ヲ撃退シ次イデ其前進陣地ヲ攻陷シ鳳凰山及ビ干大山ノ綫ニ進ミ敵ヲ本防禦綫内ニ壓迫シ我ガ海軍ノ有力ナル共同動作ヲ相須チテ旅順要塞ノ攻圍ヲ確實ニセリ
八月大孤山及ビ高崎山等ヲ陷シ次イデ強襲ヲ行ヒ東西盤龍山ノ三壘ヲ奪ヒ爾後正攻ヲ以テ攻撃ヲ續行シ逐次要塞ニ肉薄シ十一月下旬ヨリ十二月上旬ニ亙リ二〇三高地ヲ力攻シテ遂ニ之ヲ奪取シ港内ニ蟄伏セル敵艦ヲ撃沈セリ 既ニシテ攻撃作業ノ進捗ニ伴ヒソノ正面ノ三永久堡壘ヲ占領シ直チニ望臺附近一帶ノ高地ニ進出シ將ニ要塞内部ニ突入セントスルニ當タリ三十八年一月一日敵將降ヲ請ヒ茲ニ攻城作戰ノ終局ヲ告ゲタリ
時ニ北方ニ於ケル彼我兩軍ノ主力ハ沙河附近ニ相對シ戰機正ニ熟シ軍ノ北進ヲ待ツコト急ナリ
因リテ一月中旬行進ヲ起コシ二月下旬遼陽平野ニ集中シ直チニ運動ヲ開始シテ奉天附近ノ會戰ニ參與シ全軍ノ最左翼ニアリテ繞囘運動ヲ行ヒ逐次敵ノ右翼ヲ撃破シ奉天西方ニ邁進シテソノ退路ニ逼リ聯戰十餘日尚敵ヲ追躡シテ心臺子石佛寺ノ綫ニ達シ一部ヲ進メテ昌圖及ビ金家屯附近ヲ占領セシメタリ
五月各軍ト相聯ナリテ金家屯康平ノ綫ヲ占メ尋イデ敵騎大集團我左側背ニ來襲セシモ之ヲ驅逐シ茲ニ軍隊ノ整備ヲ終ハリ機ノ熟スルヲ待チシ所九月中旬休戰ノ命ヲ拜スルニ至レリ
之ヲ要スルニ本軍ノ作戰目的ヲ達スルヲ得タルハ陛下ノ御稜威ト上級統率部ノ指導并ニ友軍ノ協力トニヨル
而シテ作戰十六カ月間我將卒ノ常ニ勁敵ト健鬪シ忠勇義烈死ヲ視ルコト歸スルガ如ク彈ニ斃レ劍ニ殪ルル者皆陛下ノ萬歳ヲ喚呼シ欣然トシテ瞑目シタルハ臣之ヲ伏奏セザラント欲スルモ能ハズ
然ルニ斯ノ如キ忠勇ノ將卒ヲ以テシテ旅順ノ攻城ニハ半歳ノ長日月ヲ要シ多大ノ犧牲ヲ供シ奉天附近ノ會戰ニハ退路遮斷ノ任務ヲ全ウスルニ至ラズマタ騎兵大集團ノ我左側背ニ行動スルニ當タリ之ヲ撃碎スルノ好機ヲ獲ザリシカバ臣終生ノ遺憾ニシテ恐懼措ク能ハザル所ナリ
今ヤ闕下ニ凱旋シ戰況ヲ伏奏スルノ寵遇ヲ擔ヒ恭シク部下將卒ト共ニ天恩ノ優渥ナルヲ拜シ顧ミテ戰死痛沒者ニ此光榮ヲ分カツ能ハザルヲ傷ム
爰ニ作戰經過概要死傷一覽表并ニ休養及ビ衞生一班等ヲ具シ謹ンデ復命ス

 明治三十九年一月十四日

 第三軍司令官男爵 乃木希典

 司馬遼太郎『殉死』の第一部「要塞」の末尾、日露戦争が終わって、内地へ帰還した乃木が、明治天皇の前で読み上げる報告文の全文である。太字部分は、「要塞」中で引用された箇所である。

 自分の屈辱をこのように明文して奏上する勇気と醇気(じゅんき)は、おそらく乃木以外のどの軍人にもないであろう。この復命書を児玉が私(ひそ)かに読んだとき、
「これが乃木だ」
 と、その畏敬する友人のために讃美した。 (「要塞」)

 しかし、上記太字の部分をよく読み返してほしい。
 「旅順を攻め落とすのに半年もかかりました、その間たくさんの兵士を犠牲にしました。奉天での会戦では自軍に与えられた任務を全うできませんでした。さらには敵騎兵の大軍団が自軍の左側面から背後に回りこんでこようとした際にはこれを撃破するチャンスを逸しました。これは私(わたくし)が今後生涯の終わりまで遺憾とするところであり、かつお上に対してはまことに恐れ多いことであります」
 というのが、そこまで賞賛に値する弁であろうか。「たくさんの兵士を犠牲にしました」とか「撃破するチャンスを逸しました」とか、半分以上他人事(ひとごと)のような書きぶりである。「遺憾」に至ってようやくおのれの血の通った反省の言となるが、それとて十分とは言えぬ。「慚愧に堪えず」とか「之を羞(は)づ」ならまだしも、「遺憾」では、言葉として弱いであろう。この「遺憾」という詞は、現代語におけるほどには軽くはないが、基本は「残念である」という語義で、「済みませんでした」と詫びる意味はない。つまり、乃木は、「復命書」において、おのれの失敗を正直に語ってはいるものの、その失敗の贄(にえ)となった自軍(および友軍)の兵士たちにも、また当時の憲法上それに対して責任を負うべき大元帥たる明治天皇にも、自らの非を明確に認めはっきりとは謝罪してはいないのである。
 私は、初めてこの『殉死』を読んだとき(高校生)、この書が発表された当時はまだまったくといっていいほどの聖将扱いされていた乃木を、あそこまで「愚人」「無能」扱いしたあとで、読者の感情を慮ってバランスを取るためにことさらに持ち上げているのかと、思った。
 しかしそれから歳月も経ち、今にして思えば、これしきのことも言えぬ人間が世間では多数なのだと骨身にしみて知り、乃木への評価はしだいに変わってきた。
 乃木は「復命書」において、事実に関しては、まったく自分を庇うことなく、ありのままを書いている。これだけでも乃木は、その驚くべき正直さにおいて賞賛に値する。これがそこらへんの汚れたオヤジなら、「たくさんの兵士を犠牲にしました」も「これを撃破するチャンスを逸しました」もよう言えず、それどころか自分に都合の悪い事実は隠して、その一方で都合のいいことばかりを、それもおおいに粉飾して述べ立てているであろう。面子やら体面やらで、己の非どころか過ちを犯したことすら認めることができぬのである。その不純さまことに唾棄すべし。そうして私は、司馬氏が乃木を形容するうえで使った、「勇気」と「醇気」という言葉は、まさに乃木のこの美質を指していたのだなと、あらためて思い至ったのであった。「醇気」とは、自らを見栄を飾らぬ率直さ、体裁を繕わぬ純粋さの謂である。
 以上、仙谷官房長官の自省の弁を聞いて。