『スラヴ研究』49 (2002年4月)掲載。
2009年08月17日「岡田英弘 『世界史の誕生』 から ②」より続き。
ピョートル一世時代までロシアがクリミア・ハーン国に貢税(貢納金)を支払っていたという記述に関して、注58および49に関連する記述あり。
ロシアがクリミア・ハーン国への貢納金の支払いをやめたのは、1699年、カルロヴィッツ条約(および翌1700年のコンスタンチノープル条約?)の結果による。この結果、クリミア・ハーン国は、ロシアに対する貢納金請求権を放棄させられた(注49)。
それまでは毎年、ロシア大使がクリミア・ハーン国の都バフチサライヘ赴いて、ハーンに貢納金を納めていた。1613-1651年の38年間に、少なくとも30人ロシア大使がバフチサライを訪れ、36万3970ルーブリの貢納金を納めた(注48)。
オスマン帝国と神聖同盟およびロシアの間で結ばれたこれら二つの条約で、どうしてクリミア・ハーン国が出てくるのかというと、同国が1475年以来、オスマン帝国の属国となっていたからである。だから交渉は宗主国であるオスマン帝国とロシア(モスクワ・ツァーリ国)のあいだで行われた。
それにしても、クリミア・ハーン国はモスクワ・ツァーリ国(そしてその前のモスクワ大公国時代)から貢納金を取っていたということは、モスクワ・ツァーリ国はクリミア・ハーン国の属国だったということなのだが、そのクリミア・ハーン国はといえばオスマン帝国の属国で、つまりモスクワ・ツァーリ国はオスマン帝国の属国の属国だったということになる。日本風にいえば陪臣、又者である。だからあまりこの事実に触れた文献や研究がないのだろうか。
〈http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/49/shida.pdf#search=%27%E5%B8%9D%E6%94%BF%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B%27〉
2009年08月17日「岡田英弘 『世界史の誕生』 から ②」より続き。
ピョートル一世時代までロシアがクリミア・ハーン国に貢税(貢納金)を支払っていたという記述に関して、注58および49に関連する記述あり。
ロシアがクリミア・ハーン国への貢納金の支払いをやめたのは、1699年、カルロヴィッツ条約(および翌1700年のコンスタンチノープル条約?)の結果による。この結果、クリミア・ハーン国は、ロシアに対する貢納金請求権を放棄させられた(注49)。
それまでは毎年、ロシア大使がクリミア・ハーン国の都バフチサライヘ赴いて、ハーンに貢納金を納めていた。1613-1651年の38年間に、少なくとも30人ロシア大使がバフチサライを訪れ、36万3970ルーブリの貢納金を納めた(注48)。
オスマン帝国と神聖同盟およびロシアの間で結ばれたこれら二つの条約で、どうしてクリミア・ハーン国が出てくるのかというと、同国が1475年以来、オスマン帝国の属国となっていたからである。だから交渉は宗主国であるオスマン帝国とロシア(モスクワ・ツァーリ国)のあいだで行われた。
それにしても、クリミア・ハーン国はモスクワ・ツァーリ国(そしてその前のモスクワ大公国時代)から貢納金を取っていたということは、モスクワ・ツァーリ国はクリミア・ハーン国の属国だったということなのだが、そのクリミア・ハーン国はといえばオスマン帝国の属国で、つまりモスクワ・ツァーリ国はオスマン帝国の属国の属国だったということになる。日本風にいえば陪臣、又者である。だからあまりこの事実に触れた文献や研究がないのだろうか。
〈http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/49/shida.pdf#search=%27%E5%B8%9D%E6%94%BF%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B%27〉