書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

八木雄二 『神を哲学した中世 ヨーロッパ精神の源流』

2018年02月16日 | 西洋史
 出版社による紹介

 英語のpassionが、passiveと源を同じくする語であって、現に「受動」という意味を持ちながら、なぜ同時に「感情・情熱」という意味にもなり、さらにはイエス・キリストの受難の意味でもありえるのかということが、ありありとわかった。こういう原理的なことを丁寧にしかもわかりやすく説くのはそれだけで名著と見なすに足ると、つねづね思っている。いまひとつ、私がこのテーマに関連して長らく分らなかった核心の一点を、やはり簡明な言葉遣いでずばり説明しておられることと合わせての感想。

 〔ペルソナは「仮面」から「人間精神の顔」へ、そして〕「一人一人で違う理性の性格」を意味するようになり、その結果として現代では個人の性格を意味する。 (154頁)

 つまり人間の性格とはまず第一に理性のそれなのである。これをさらに突き詰めれば、人間とは理性をもつ者、あるいは本質は理性そのものとなるであろう。

 十七世紀のデカルトが「我思う、ゆえに我在り」と言ったときの「我」は、情をもつ「理性的自我」である。
 (156頁)
 
 ところで「理性の情」と「感覚の情」(本書第5章「中世神学のベールを剥ぐ」の“フォーマルな知と情”、なかでも193-196頁あたり)は、それぞれ「本然の性」「気質の性」と、どこがどう違うだろうか。この著に新儒教のことが一切出てくるわけはないので、これは読んだ私の勝手な連想と疑問。

(新潮社 2012年10月)