出版社による紹介。
「子孫の〔未来における成功と失敗回避の〕ために書き残す〔先祖が経験した過去の諸事実の〕記録としての『日記』という意味合いが、個人の感慨や思い出を記すことを目的としている現代の日記との最も大きな違いである」(「序章」18-19頁)。だから平安貴族の日記は史料として信用できるのだという、本質論から出発する議論。
「平家にあらざれば人にあらず」と俗に流布した平時忠の言葉の、文学作品『平家物語』での原文「人」が、当時の他の史料での用例を確かめること無く、後世の意味での「人間以下の存在」「人でなし」と解釈されたままで、専門家の世界においてさえこんにちまでほぼこのままできたこと、そしてその当時の用例を検索すると、「人」とは「公卿でない中下級の貴族層の人」を意味していることを、著者は指摘する(「第一章『平家に非ざれば人に非ず』」、とくに37頁前後の議論)。ここで、著者はそうは言ってはおられないが、読んだ者の責任において著者のこの指摘を言い換えれば、わかりやすくは、殿上「人」(広義の)ではない=非ざる「人」間という意味であろう。いずれにせよ人でなしという意味ではない。そしてこれも読者が用例から察するに、かならずしも常に蔑称でもないらしい。つまり、時忠が言ったとされる科白は、平家でない人間で高位高官にある者はいない」という、多少誇張は交じるものの、客観的な事実を述べただけのことでありものであったかもしれないということである。
(臨川書店 2017年1月)
「子孫の〔未来における成功と失敗回避の〕ために書き残す〔先祖が経験した過去の諸事実の〕記録としての『日記』という意味合いが、個人の感慨や思い出を記すことを目的としている現代の日記との最も大きな違いである」(「序章」18-19頁)。だから平安貴族の日記は史料として信用できるのだという、本質論から出発する議論。
「平家にあらざれば人にあらず」と俗に流布した平時忠の言葉の、文学作品『平家物語』での原文「人」が、当時の他の史料での用例を確かめること無く、後世の意味での「人間以下の存在」「人でなし」と解釈されたままで、専門家の世界においてさえこんにちまでほぼこのままできたこと、そしてその当時の用例を検索すると、「人」とは「公卿でない中下級の貴族層の人」を意味していることを、著者は指摘する(「第一章『平家に非ざれば人に非ず』」、とくに37頁前後の議論)。ここで、著者はそうは言ってはおられないが、読んだ者の責任において著者のこの指摘を言い換えれば、わかりやすくは、殿上「人」(広義の)ではない=非ざる「人」間という意味であろう。いずれにせよ人でなしという意味ではない。そしてこれも読者が用例から察するに、かならずしも常に蔑称でもないらしい。つまり、時忠が言ったとされる科白は、平家でない人間で高位高官にある者はいない」という、多少誇張は交じるものの、客観的な事実を述べただけのことでありものであったかもしれないということである。
(臨川書店 2017年1月)