書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

マリオン・ウィリアム・スティール著 高山芳樹訳 「勝海舟と横井小楠 公議政治を目指す二つの道」

2013年07月17日 | 日本史
 勝は明治になってから横井のことを訊ねられて、

 太鼓持ちの親方のような人で、何をいうやら、取りとめたことがなかった。

 と評したという。この言葉は有名な、勝から米国の政体の説明を聴いて、「(それは)堯舜の政治ですな」と言下に評したという有名な逸話と同じ場所にあるらしい。
 らしい、というのは、私の持っている講談社版『氷川清話』の横井小楠項(注)には、前後似たくだりはあるが、「太鼓持ちの親方のような人で」という言葉はないからである。

 。江藤淳/松浦玲編、講談社学術文庫、2000年12月第1刷、2001年1月第2刷、76-77頁。

 それはとりあえずは措くことにして、著者はこの逸話を紹介したうえで、「小楠を『太鼓持ちの親方』と表現した勝の真意はどこにあったのだろうか」と問題提起を行い、「勝は横井の柔軟性に深く感じ入っていたのである」と自答する。こちらを考えたい。
 この断定には根拠が示されていないために、その判断の理由はわからない。しかし結論に関しては、私にもそうではないかと思える。村田氏寿の『関西巡回記』に出てくる横井の口吻には、もしそれが彼の口調を忠実に写した物であればという限定が付くが、滑脱さが談話のふしぶしからうかがえる。そしてそれは、語句の柔らかさよりもそれが表すところの思想の円転さによるものである。ものの見方が堅苦しくないのである。
 実際、上記講談社版の『氷川清話』でも、勝は横井を「元来物事に凝滞せぬ人であつた」「それゆゑに一個の定見といふものはなかつたけれど、機に臨み変に応じて物事を処置するだけの余裕があった」と評している。つまり柔軟ということだ。

(『季刊 日本思想史』37、1991年5月、61-79頁)

 追記。巌本善治編/勝部真長校注『新訂海舟座談』(岩波書店1983年2月第1刷、1994年2月第24刷)の横井関連部分にも「太鼓持ちの親方のような人で」という句は見られない。同書102頁。