書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

天罰が下ったというわけではないのだが

2008年08月29日 | 思考の断片
▲「Infoseek楽天ニュース」2008年8月28日16時55分、「中国、ギョーザ事件担当更迭か 公安省、日中協議にも出席せず (共同通信)」
 〈http://news.www.infoseek.co.jp/topics/world/n_gyouza_tyudoku2__20080829_2/story/28kyodo2008082801000520/

 中国公安省の余新民副局長は会見で、「人為的な個別事件」との見立てを表明。「日本で混入したと言っているわけではない」としながらも、中国国内でメタミドホスが混入した可能性を再三否定してみせた。 (「MSN産経ニュース」2008.3.2 13:54、「【衝撃事件の核心】毒ギョーザ事件 中国から“コケ”にされた日本警察『大激怒』」)

 上の権力闘争の結果、側杖を食って詰め腹を切らされた要はトカゲの尻尾、将棋の駒だろうけれど、それでもざまを見ろと溜飲は下がる。

「Time.com」、 「The New (Old) Russian Imperialism」

2008年08月29日 | 抜き書き
 〈http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1836234,00.html

 Aug. 27, 2008。"YURI ZARAKHOVICH"の署名入り。

One Soviet-era joke went like this: the worker Ivanov "borrows" a set of spare parts from the stroller factory to make a buggy for his kid. After hours of work he turns in frustration to his wife. "It's no go," he says. "I tried putting them together in every possible way, but I always end up with a machine gun."

For almost 20 years, Russia has been borrowing spare parts to build a democracy but somehow, the country's rulers have ended up with the same policy the Soviets and the Tsars used: force.

 記事自体はどうといったことはないが(ほかのメディアでも見ることができるような内容だという意味)、この言い回しは面白い。それによって言わんとするところがあまりに見えすいていて(「ソ連の昔もロシアの今もあの国は同じ」)、ちょっと野暮だけれども。この生真面目な野暮さが「タイム」の身上だと、私などは思っている。

「仏高力 鬼作左 どちへんなしの三郎兵衛」

2008年08月29日 | 思考の断片
 徳川家康の三河時代に岡崎を治めた三人の奉行の評である。

 仏高力 高力清長(与左衛門) 1530年-1608年
 鬼作左 本多重次(作左衛門) 1529年-1596年
 どちへんなしの三郎兵衛 天野康景(三郎兵衛) 1537年-1613年

 「どちへんなし」は、どっちにもかたよらない、つまり公平なという意味だそうだ。最近知ったのだが、漢字では“何方偏無し”と書くらしい。
 以前から、「仏高力――」の唄は知っていて、「どちへんなし」も意味は知ってはいたのだが、“何方偏無し”(あるいは“彼是偏無し”とも)の漢字を見て、ようやく納得がいった。なるほどそれでそういう意味かと。
 徳川家康と三河武士団の関わりを描いた司馬遼太郎『覇王の家』で、忠義無類ではあるが己の思案を常に優先して、かならずしも上に――家康その人にさえ――従順ではない安藤直次(彦四郎・帯刀。1555年?-1635年)を、宿老(おとな)たちが、

 「どちへんなしめが」 (新潮社文庫版、1994年3月第40刷、422頁)

 と、非難する場面がある。わがままというほどの意味であるようだったが、いまひとつニュアンスがよく掴めなかった。これについては、ひらがなで表記された字面からは意味をしのばせる手がかりが見いだせなかったせいもあった。だが今回、漢字表記を知って、ああそういう意味なのかと、納得が行ったわけである。
 しかしながら今度は、新たな疑問が湧いてきた。“どちへんなし”が「公平な」という意味であるのなら、『覇王の家』の使い方は、ちょっと違うのではなかろうか。
 もっとも、この作品で、主人からある程度距離を置き、一種醒めた目で自分の主を眺める、自立した思考、“勝手料簡”の持ち主として描かれる安藤直次は、主君べったりで忠義一辺倒、独立した自己というものがない、大久保忠教(彦左衛門)がいみじくも喝破したところの“御家の犬”と比較してみた場合、確かにかたよっていないと言えよう。この意味では彼を「どちへんなし」と評するのは間違いではない。またこう考えることで、おとなたちが直次をなじった理由もより解るような気がする。あるべき三河武士の姿からはずれているおのれを恥じもせず、平然として矯める素振りも見せぬと、伝統を守る立場にある彼らにすれば、直次のいわば頭の高さが、大いに勘に障ったのであろう。やれこやつ奴は人のつもりでおるわ、と。