書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所」、「『チベットで140名死亡』という報道に関する声明」から

2008年08月27日 | 抜き書き
http://www.tibethouse.jp/news_release/2008/080822_lemonde.html

 2008年8月22日、ダライ・ラマ法王事務所(フランス)。

 このニュースを受けて以降、四川省甘孜(東チベット、カム地方)の地元住民との連絡が途絶えています。

 中国政府によってニュースソースが捕らえられたということだろう。140人というデマの数字を海外に伝えて国家の威信を傷つけた咎(とが)か、あるいは真実を伝えて国家機密を漏洩した科(とが)か。

アーミン・H・マイヤー著 浅尾道子訳 『東京回想』

2008年08月27日 | 政治
 著者は1969年から1972年にかけての駐日米国大使。

 中国の共産主義者たちは、(中略)対日経済関係を支配していたので、日本の中国熱によっていずれにせよ政治的には防戦一方の立場にあった佐藤〔栄作〕首相に対し礼儀を示す理由など持ち合わせなかった。 (「第4章 中国との緊張緩和」、本書113頁)

 こういう見方もある。
 “日本の中国熱”については、著者は別の箇所で、中国に関して日本人が伝統的にかつ近代の歴史的な原因によって抱いている心理的な劣等感や引け目(“中国コンプレックス”)が、当時(1960年代末から1970年代初頭)の状況下において熱病のように昂じたものと説明している(102-105頁)。

 中国で日本が勢力をふるった十四年間に一千万人あまりの中国人が殺されたことに、日本人は一九七一年になっても、なおも深い罪の意識を持っていた。蒋介石政府との間で一九五二年に平和条約が結ばれはしたが、罪悪感はそれだけでは消えなかった。 (103頁)

 “なおも”の三字が、興味深い。
 なお本書に、沖縄返還交渉で佐藤栄作の密使としてヘンリー・キッシンジャーと極秘折衝を重ねた若泉敬の名が、一箇所だけ出てくる。もちろん密使としてではない。

 若泉敬氏のような知識人たちは、アメリカは北京で、日米安保条約は日本の“軍国主義”抑制に効果があるなどと中国側を説得しようとするような誤りを犯すのではないかといった。 (141頁)

 いつ、どこでの発言か、著者が直接に聞いたものかあるいは伝聞なのか、記述がややあいまいで、不明。しかし前後の文脈から、1971年11月末から12月末にかけて、翌1972年1月初めのサンクレメンテにおける佐藤―ニクソン会談の前であることは判る。そしてこれも興味深いことに、著者が“若泉敬のような知識人たち”が発した危惧の言葉として紹介するその内容は、まさに、キッシンジャーが北京で周恩来に対して行った発言ほぼそのままである(1971年10月22日、第4回周恩来・キッシンジャー会談)。

(朝日新聞社 1976年5月)