書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

鄭観応 『盛世危言』

2008年08月16日 | 東洋史
 今年5月22日欄「鄭観応著 野村浩一訳 『盛世危言』(1893年)から」から続く。
 『盛世危言』を、原文で読んでみた。

 議政院〔議院、議会〕というものを考察してみるのに、各国ではいくらか相違があるものの、おおむね上下の両院にわかれるという形からはずれるものはない。近いという点からいえば、上院は、その国の王族、勲功ある親族、及び各部の大臣をばこれに任命する。君主に近いという点を取るのである。他方、下院は、紳士、名望家、士民、商民のうち才能にすぐれ、人望の厚いものをこれに充てる。民に近いという点を取るのである。選挙の法は、ひとえに公衆を中心とする。国事にかかわる事がらが起これば、先ず下院で審議、決定させ、上院に通達させる。上院はこれを審議、決定して、国君に奏上し、こうして採否を決する。もし意見が喰い違えば、両院は重ねて論議し、妥協に達するようつとめて後、これに従う。経費がどれほどになっても、議院がこれを定め庶民はそれに従う。 (野村浩一訳『盛世危言』(抄訳)から)

 『原典中国近代思想史』(第二冊)に翻訳・収録されたこのくだりは『盛世危言』の「巻四 議院上」に見えるものである。
  同じ巻四の「議院下」で、鄭は、世界には「君主之国」「民主之国」「君民共主之国」が存在すると述べている。

 蓋(けだ)し五大洲には君主の国有り、民主の国有り、君民共主の国有り。君、主ならば権上に偏り、民、主ならば権下に偏る。君と民と、共に主ならば権は其の平(ひと)しきを得(う)。  (「巻四 議院下」)

 鄭の言う“君民共主之国”が、幕末明治初めの日本においては“君民共治”という言葉で呼ばれた、立憲君主制国家であることは、続く以下の説明から分かる。

 凡そ事は上・下院の議定に由ると雖も、仍(な)お其の君に奏して裁奪〔裁決〕せしむ。君然りと謂(おも)わば即ち簽名し准(ゆる)して行わしむ。君否と謂わば則ち発下〔命令〕し再議せしむ。  (同上)

 なお“民主之国”とは言うまでもなく民主主義制国家であり、“君主之国”は君主専制国家の謂である。

 其の法を立つるの善なる、思慮の密なるは、皆な上下相い権(はか)り、軽重平しきを得て、乃ち克(よ)く此に臻(いた)るに由るなり。此の制、既に立てば実に億万人を合して一心と為す。  (同上)
 
 これは“君民共主之国”=立憲君主制国家の利点について述べたものである。
 鄭観応は、国家主権の所在について、君主、人民、その双方の場合があることを明確に認識している。
 鄭は、立憲君主制国家においては主権が君主と国民の間で共有されること、民主制国家においては主権がまったく国民に在ることを理解していた、このことはつまり、鄭は議院(議会)が諮問機関ではなく議決機関、立法機関であることを正確に認識していたということである。
 それは、このくだりにつづいて彼がイギリスと日本の例を引いて説明していることからも明らかである。

 試みに英国弾丸の地〔ちっぽけな国〕を観ん。女主国に当たり、人を用いて政を行わせしむるも、皆な上下院議員の経理〔管理運営〕を恃むなり。比年〔きんねん〕人を得、土地は已に其の本国に二十倍す。議院の明効〔明白な効果〕・大験〔顕著な効き目〕、此の如き者有り。日本之を行い、亦た勃然として興起せり。西国に歩趨〔後を追う〕し、中華を陵侮〔蔑み馬鹿にする〕す。而して猶お議院は行うべからざると謂うか。  (同上)

 この記述からは今ひとつ明らかになることがある。鄭観応はよくいわれるような洋務派よりも、変法派に近いスタンスの持ち主だということである(洋務派は、中国の伝統的な君主専制体制以外の国家体制を理解できないか、理解できても、その優越性を認めるような言動は絶対にしない)。議会制を導入せよという鄭の主張は、君主専制から立憲君主制へと清朝の国家体制を変えよという、まさに変法以外の何物でもない。そして鄭は、それが皇帝権力の制限を必然的に伴うことを百も承知していた。

(台湾 学術出版社 1965年11月)