♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■主が共におられるので / 岩井基雄

2019年06月17日 | Weblog
2019/5/13放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 第二週の月曜日は旧約聖書の創世記に登場する信仰者のアブラハム、そしてヤコブの人生を学び、最近はヨセフの人生を学んできました。来月からは旧約聖書の出エジプト記からモーセの生涯を学んでいきたいと願います。その前にこの創世記に登場した人々の生涯を貫く信仰の歩みについて、イスラエルの王ダビデの詩篇のことばを借りて触れておきたいと思います。

 ダビデは詩篇の中でこう歌っています。
 「私はほめたたえます。助言を下さる【主】を。
   実に 夜ごとに内なる思いが私を教えます。
  私はいつも 【主】を前にしています。
   主が私の右におられるので 私は揺るがされることがありません。
 それゆえ 私の心は喜び 私の胸は喜びにあふれます。
   私の身も安らかに住まいます。」

              旧約聖書 詩篇16篇7節から9節

 創世記に登場するアブラハム、ヤコブそしてヨセフはそれぞれの苦難を通りましたがその苦難を通し神の御手の中で練られ、整えられていきました。彼らは常に自分たちの弱さと向き合いました。自分の限界と向き合うことは決して嬉しいことでも楽なこともありません。しかしそれこそ主の招きであり、彼らはその弱さや限界を通して主権者なる神様の愛と恵みに信頼するように導かれたのです。様々な人生の苦難や葛藤の中でこそ彼らは主である神様の前に自分を置きました。自分の人生の中心に神の存在を置いたのです。そして彼らはそこで神ご自身が、主権を表す自分の右側にいてくださることを知り、そこで主なる神様を認めることによって彼らは整えられ続けたのです。それは自分の知恵や力ではなく、主ご自身への完全な信頼を学び続けることでもありました。私たちも主の前に自らを置き、信仰によって自分の主権を神様に委ねるとき、どんな中にあっても揺るがされない人生を歩むことができるのです。私たちもまたどんな時にも主を見上げ、主に信頼して歩む者とさせていただきたいと願います。

 聖書のことば
 「私はいつも 【主】を前にしています。
   主が私の右におられるので 私は揺るがされることがありません。

                      詩篇16篇8節

  (PBA制作「世の光」 2019.5.13放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■ダビデとゴリヤテ / 羽鳥頼和

2019年06月15日 | Weblog
2019/5/11放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 
 今日は旧約聖書サムエル記の第一17章から、ペリシテ人の戦士ゴリヤテと少年ダビデについてお話しします。ゴリヤテは最強の戦士でした。聖書にはこのように記されています。
 「その背の高さは2メートル86、頭には青銅のかぶとをかぶり、鱗綴じのよろいを着けていた。胸当ての重さは青銅で57キロ。青銅のすね当てを着け、青銅の投げ槍を負っていた。槍の穂先は鉄で、6.8キロあった。」(参照 4~7節)

 ゴリヤテは3メートルに近い巨人であり、重装備の完全武装した最強の戦士でした。ゴリヤテは大声でイスラエルの陣営に向かって叫びました。「一人を選べ。そいつが俺と戦って、俺を殺せるなら俺たちはお前らの奴隷になる。だが俺が勝ったらお前らが俺たちの奴隷になるのだ。」

 イスラエルの兵士たちは非常に恐れました。そんな中で聖書はダビデのことを語ります。ダビデの三人の兄たちは戦いに出ていましたが、末っ子のダビデはまだ若くて戦場に出ずに、家で羊の世話をしていました。そんな時、父様は兄たちの安否を知るためにダビデをイスラエルの陣営に行かせたのです。こうしてダビデは戦場に行くことになり、何とゴリヤテと戦うことになるのです。そして少年であったダビデはゴリヤテを倒してしまいました。

 新約聖書 コリント人への手紙 第一 1章27節にはこうあります。
 「神は、・・・強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。

 ダビデは神によって選ばれ、神によってゴリヤテを倒すことができたのです。

 新約聖書 コリント人への手紙 第二 12章9節にはこうあります。
 主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
  自分に弱さを感じるとき、このみことばを信じて、力あるキリストに期待しましょう。

 明日は日曜日です。お近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2019.5.11放送でのお話より )
 
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■モーセとエリヤとイエス様 / 関根弘興

2019年06月14日 | Weblog
2019/5/10放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 イエス様の生涯を記した福音書の中に、イエス・キリストがペテロとヨハネとヤコブの三人を連れて高い山に登られた出来事が書かれています。山に着くと弟子たちは疲れていたのでしょう、眠気を催してうとうとし始めてしまいました。その時でした。何と白く光り輝く栄光の姿に変貌したイエス様の姿を見たのです。

そして更に驚いたことに、その場所にモーセとエリヤが現れたというのですねえ。モーセはイスラエルの民をエジプトから脱出させた人物です。モーセは、荒野を旅しているときにシナイ山で神様から十戒を授かりました。そしてモーセ五書と呼ばれる、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を編纂し、神様から授かった律法を人々に教えた旧約聖書の大変有名な人物です。また、エリヤという人は紀元前9世紀に目覚ましい活躍をした偉大な預言者で、旧約聖書の預言者たちの代表とみなされているような人物でした。

 ユダヤ人は旧約聖書を「モーセと預言者たち」または「律法と預言者たち」と呼んでいました。ですからモーセとエリヤがそこに現れたということは二人合わせて旧約聖書全体を表す人物だとも言えるわけですね。このモーセとエリヤがイエス様と話合っている光景を弟子たちは見た訳です。それは旧約聖書が示す事とイエス様と話合っていたということであり、旧約聖書の内容がイエス様と大切な関わりがあるということを示す象徴的な光景でもあった訳です。

 ある人は、どうして旧約聖書と新約聖書はあるのですか?と質問されます。ま、特に旧約聖書は驚くようなですね人間のドロドロとしたことが書かれていますし、戒めを守ろうとしても守れない人間の弱さがたくさん描かれています。しかし同時に人間が神様の戒めを守ることができないからこそ将来、救い主キリストが来られるのだということが預言されている訳です。

 人は自分の力で自分を救うことができないことを旧約聖書は教えています。だから人間の力ではなく、一方的な愛と恵みによって人の罪を赦し、永遠のいのちを与える救い主がどうしても必要なのですねえ。弟子たちが見た光景は、旧約聖書が示す救い主こそ栄光に輝くイエス様ご自身であるということを後に証言させる光景となったのです。

     (PBA制作「世の光」2019.5.10放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■十戒 -自由への励まし104 / 大嶋重徳

2019年06月13日 | Weblog
2019/5/9放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒第九戒は「隣人に対し、偽証してはならない。」(申命記 5章20節 新改訳第三版、参照出エジプト記20章16節)です。

 十戒第九戒をはじめに聞いた人たちにこの戒めが直接的に意味した事は、裁判における偽証の禁止です。当時は裁判が今日よりも日常的に行われるもので、何かいざこざがあると人の集まる場所で、裁き司つまり裁判官を呼んで裁判を行いました。十戒の戒めを受け取ったイスラエル人々にとっては指導者モーセがその役割を担っていました。モーセのもとには大量の問題が持ち込まれたので、モーセは自分の舅イテロの助言に従って民の裁き司を立てたことを聖書は記しています。これは新約聖書の時代にも見られ、姦淫の罪を犯した女性の裁判においてもイエス様が律法の教師として人々から判断を求められました。しかしこの裁判では判断を求められたイエス・キリストを落としいれようとした思惑を持っている人々の意図が背後にありました。つまり、このような裁判は表向きは公平であるように見えながら、その背後に権力者や指導者の意図が働くことがあったのです。それゆえ聖書では、この当時の裁判の判断には二人以上の証言を求め、複数の証言によって裁判がなされ、証言は重要な役割を果たしたのです。

 しかし、聖書の他の箇所では、ナボテという人が持っているぶどう畑を欲しいと思った王様アハブが策略によって聖書通りに二人の男に「ナボテは神と王を呪った」という証言をさせます。その証言のせいでナボテは石打ちの刑となり、アハブ王はナボテのぶどう畑を奪い取ったのです。

 もし裁判で偽証されることになれば裁判への信頼は失われ、社会的公正さが崩れていきます。さらに偽りの証言をされた被害者の生活、尊厳、また将来も、更には家族の人生が破壊されることとなります。そのため偽証の罪は非常に重いものとされました。

 第九戒が求めることは公において正しく正義が貫かれる社会が形成されることです。つまり、偽りの証言をしないという社会参加をすることを求められていたのです。私たちもまた、自分のついた小さな嘘が誰かの人生を殺すようなことがあってはいけません。第九戒の戒めのように今日も私たちは誠実に自分の語ることばに責任を持つ必要があるのです。

    ( PBA制作「世の光」2019.5.9放送でのお話しより )

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■主のことばのとおりであった / 福井 誠

2019年06月12日 | Weblog
2019/5/8放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。
   継続は力なり。聖書を一日一日と読み進む毎に不思議にも自然と養われていくものがあるものですね。では今日も聖書を開いて参りましょう。今日は列王記第二4章44節から「主のことばのとおりであった」と題してメッセージをお伝えいたします。
 「そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べて残した。【主】のことばのとおりであった。

 当時、神の預言者は社会の中で十分かつ正当な関心を持って取り扱われていなかったようです。神のみわざのために労し死んだ預言者の家族が生活苦に陥っていたエピソードが描かれています。しかしそれは旧約時代だけのお話ではありませんね。新約聖書の時代において使徒パウロはこう語っています。
 「みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。」 (ガラテヤ人への手紙6章6節 )

 新約時代に於いても教会の働き人の生活に配慮すべきことは教えられなければなりませんでしたが、それは今日も同じです。エリシャは配慮と祈りを持ってそうした生活苦に陥っていた預言者の家族を助けました。この章に続いて描かれるシュネムの女の話も関連した内容ですねえ。彼女はしばしば訪れる預言者のために心遣いをし、休める部屋を提供しています。彼女は自身の富を正しく用いて、神の働きのためにすべてを投げ打ったエリシャの働きを支えたのです。

 最後に、同じように預言者たちに食料を分け与えるエピソードが描かれています。それは十分なものではありませんでしたが、神様は「与えなさい。それは十分であるばかりか、食べ残すであろう。」と語られるのです。何か新約聖書に書かれている五千人の人のお腹を満たしたイエスの二匹の魚と五つのパンの奇跡を思い出すようなエピソードですね。

 大切なのは、これらは神様を第一とし神様を覚えて歩むときに、必要なものはみな与えられることを物語っていることです。イエス様も言いました。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイの福音書6章33節)と。

 神のもとに豊かさと力と勢いがあります。いつでも不足があったら神に期待し、神の助けと導きを求めるものでありましょう。

 では良き一週を祈ります

 (PBA制作「世の光」2019.5.8放送でのお話より )

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■サウロの回心 -2  なぜ私を迫害するのか / 板倉邦雄

2019年06月11日 | Weblog
2019/5/7放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
今日は「サウロの回心 その2 なぜ私を迫害するのか」という題でお話ししましょう。
 
 サウロは息をはずませながらキリスト信徒たちを外国のシリアのダマスコまで追いかけて行きました。彼らを見つけ次第、男女の別なく縛りあげてエルサレムに引っ張ってくるためでした。使徒の働き9章です。

 ダマスコの町に近づいた時でした。突然、天から眩しい光が射してサウロを巡り照らしたのです。サウロはその光の明るさのゆえに目が見えなくなったのです。その時です。「サウロ。サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」と呼びかける声を聞きました。サウロはとっさに、「主よ、あなたはどなたですか?」と尋ねたのです。サウロはその声の主が、自分がずっとずっと信じて従ってきた主なる神であることを失明の中で悟ったのです。

 すると答えがありました。「わたしはあなたが迫害しているイエスである。さあ立って町に入って行きなさい。そうすればそこであなたのなすべきことが告げられるであろう。」 サウロが脅迫し迫害し苦しめていたのはキリスト教徒たちでした。しかしサウロは自分の信頼していた主なる神様を脅迫し迫害し苦しめていたのです。神様に対して敵対していたことになりますねえ。しかし同時に、主なるイエス様がサウロの犯行と悪行を受けとめていてくださったことにサウロは失明の中で気づかされたのではないでしょうか。この主イエスはご自分を信頼し従うキリスト教徒たちの苦しみを受けとめながら、迫害者サウロの悪行をも受けとめておられたのです。主イエスの十字架と復活はこの私のためだ、とサウロは悟りました。

 さて、サウロの同行者たちは声だけは聞こえましたが、誰も見えません。サウロは地から起きがり目を開いてみましたが、何も見えませんでした。そこで仲間たちはサウロの手を引いて連れて行きました。サウロは三日間目が見えず、また食べることも飲むこともしませんでした。暗闇の中で、断食と主なる神様への祈りをするサウロにこれからなすべきことが告げられてゆくのです。つづく。


  (PBA制作「世の光」2019.5.7放送でのお話より )

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■神への感謝と賛美を表す人生 / 岩井基雄

2019年06月10日 | Weblog
2019/5/6放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第一月曜日は詩篇から学んでいますが、今日は詩篇116篇の後半から、「神への感謝と賛美を表す人生」と題して、神様の恵みに導かれる人生に心を留めてみましょう。

 先月学んだように、この詩篇には重い病に悩んだ作者が死の不安や苦悩から救い出された感謝が歌われています。作者は苦難の中にこそ、なお神様に信頼し、神の御名を呼び求めて次のように歌うのです。
 「私は信じています。まことに私は語ります。 私は大いに苦しんでいました。
・・・私は救いの杯を掲げ 【主】の御名を呼び求めます。
・・・私は自分の誓いを【主】に果たします。 御民すべての目の前で。
・・・私はあなたに感謝のいけにえを献げ 【主】の御名を呼び求めます。

         旧約聖書 詩篇116篇 10節、13節、14節、17節

 苦しみを通る中でこの作者は神からの助けと救いを確信し、また感謝し、救いの杯をそして感謝のいけにえを神に捧げるのです。そして主の御名を呼び求め、神の民すべての目の前で神への誓いを果たす、と語ります。私たちは時に苦難の中で、祈りが聞かれたら、答えが与えられたら感謝します、と言いますねえ。しかしこの詩篇の作者は、なお深い苦難の中でも、まず神様に感謝し、救いの杯を掲げます。そこには自分の願いを優先させず、主の主権を優先する信頼の姿があります。その信頼に応えて神は彼を枷から解き放ち、恵みの救いを与えてくださいました。生きておられる神様は私たちの信頼を喜び、その祈りに応えてくださるのです。それゆえその作者は最後にこう歌います。
 「私は自分の誓いを【主】に果たします。 御民すべての目の前で。
・・・【主】の家の大庭で。 エルサレムよ_あなたのただ中で。 ハレルヤ。

       詩篇116篇 18節、19節

 彼はなおも主に信頼し、主への誓いを守り、主の大庭で神の臨在のただ中で心からハレルヤと神を賛美するのです。私たちは時に、感謝できる事を自分の側で選り分けてしまいます。しかし聖書は私たちにすべてのことを感謝するように、どんな時にも神に信頼するようにと招くのです。
 
  (PBA制作「世の光」 2019.5.6放送でのお話より )
 
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■いのちを求めなさい / 羽鳥頼和

2019年06月08日 | Weblog
2019/5/4放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は新約聖書マタイの福音書7章でイエスが教えられた事をお話しします。

 イエスは言われました。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。・・・だれでも、求める者は受け、探す者は見出し・・・ます。
        (マタイの福音書7章7、8節)

 誰に求め、何を探したらよいのでしょう。イエスは続いて、天の父なる神に求めるように教えられました。「・・・あなたがたは・・・、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。
               (マタイの福音書7章11、12節 )

 律法と預言者とは旧約聖書のことです。イエスはここで教えられたのは、「あなたの隣り人をあなた自身のように愛しなさい」(マタイの福音書19章19節参照)ということです。神が人に良いものを与えてくださる。それは人が互いに愛し会うためなのです。

 続くイエスのことばは、神に何を求めたらよいのか教えてくれていると思います。イエスはこのように教えられました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。
             (マタイの福音書7章13、14節)

 この狭い門を探し求めるなら神が必ず見出してくださる、とイエスは言うのです。狭い門はいのちに至る門です。このいのちを私たちは神にまず求めるべきです。「狭い門から入る」とはイエス・キリストを信じて神から与えられるいのちを受けることです。そしそれからの歩みは、神から与えられたいのちを全うすることができる人生となります。神が与えてくださるいのちは普通のいのちではありません。創造主である神が与えてくださるいのちです。ですから、死んでも生きることができる永遠のいのちです。そして人を愛することのできるいのちです。

 明日は日曜日です。お近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2019.5.4放送でのお話より )
 
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■栄光に輝く主 / 関根弘興

2019年06月07日 | Weblog
2019/5/3放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 イエス・キリストの生涯を記した福音書の中に、イエス様がペテロとヨハネとヤコブの三人を連れて高い山に登られたという出来事が書かれています。山に着くとイエス様は祈り始められました。すると弟子たちは疲れていたのでしょう、眠気を催してうとうとし始めてしまいました。その時でした。彼らの眠気を吹き飛ばしてしまう出来事が目の前で起こったのです。それは何と白く光り輝く栄光の姿に変貌したイエス様の姿を見たんですね。

 イエス様について聖書が私たちに教えている大切なことは何でしょう。
 ピリピ人への手紙2章6節(、7節)にはこう書かれています。
 「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」 こう教えています。本来イエス様は光輝く神なるお方であるにもかかわらず、それを捨てて人として来てくださったと教えているんですねえ。

 旧約聖書イザヤ章53章2節には、「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。」と書かれていますが、イエス様の本来の姿は栄光に満ち、光り輝いているんです。弟子たちはここで神の御子としての輝かしい御姿を見た訳ですねえ。

 人間はどこかで上に上に昇りたがるくせを持っているように思います。あの人より私の方が上、この人より絶対下になりたくはない。上に上にと昇りたがるのです。もちろん向上心を持つことはとても大切なことですが、ともするとこうした思いが間違った優越感や劣等感を生み出してしまうこともありますね。

 しかしイエス様の姿はどうでしょう。栄光に満ち溢れた方であるにもかかわらず、上から下に降りてくださったのです。それも栄光をかなぐり捨てて私たちと同じ人として来てくださいました。そればかりか、しもべの姿となって来てくださったと聖書は教えています。人が上に上に昇りたがるとき、いつしか高慢を生み出します。しかし上から下に降りてきてくださった方がいます。イエス・キリストです。私たちはこのキリストの謙遜の姿を通して人としてどう歩むべきかを知り、このイエス様の謙遜が永遠の救いをもたらすことになることを聖書から知ることができるのです。

     (PBA制作「世の光」2019.5.3放送でのお話しより)

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■十戒 -自由への励まし103 / 大嶋重徳

2019年06月06日 | Weblog
2019/5/2放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒をはじめとした聖書のことばは、人間を縛りつけるものではなく、自由へと導くためのことばなのです。十戒第九戒は「隣人に対し、偽証してはならない。」(申命記 5章20節 新改訳第三版、参照出エジプト記20章16節)です。

 人はなぜ嘘をつくのでしょうか。この大きな問いをこれから考えていきたいと思います。この戒めを聞いてすぐに頭に思い浮かぶのは、きっと嘘をついてはいけないということだな、と思われるのではないかと思います。

 私が子どもの頃、教会学校で暗唱した十戒の子どもバージョンは文字どおり「嘘をついてはならない」だったと思います。そして、もしみんなが嘘をついても神様は知っておられるよ、というメッセージが語られたように思うのです。しかしこれまでの十戒の学びがそうであったように、十戒とは個人的で内面的な行いだけを問題にしているのでありません。もっと社会的な広がりを持ったことばです。

 しかし十戒を教会で子どもたちに語る時、個人的な内面のこととして教えた方がピンときやすいのではないかと思います。更に日本人の宗教性というのを考えても、自分の内面を磨き上げ、嘘をつかない、そういう個人倫理化した方が受け留めやすいという現実もあるかと思います。教会学校の先生もその方が語りやすく、そして十戒をはじめとした律法は更により個人化・内面化に傾いていってしまうように思うのです。

 しかし、第九戒の戒めもまた結局嘘をついちゃいけないんでしょう?以上に、一緒に生きる共同体が嘘をつかない社会になっていくように、偽証を許さない文化形成へと光を放っていきます。この場所が丸く収まるならば多少の嘘も必要だよね、と小さな嘘を許していくことが誰かの人生を大きく損なっていく事を自覚するようにと励まします。そして何より本当のことを言う生き方へと私たちを促すのです。本当のこととは、イエス・キリストの良き知らせを伝えていくということです。イエス・キリストこそ偽りを口にすることなく私たちに愛を示してくださいました。その愛に触れたとき、私たちは自分を守るための嘘をつくことがどれだけ愚かで悲しいことなのかということを知ることができました。嘘をついて誰かの人生を損なうことなど誰もしてはいけないのだという事を知ることができたのです。

 このラジオ世の光の放送もまたその良き知らせを皆さんにお伝えしたいと願って放送が続けられています。是非今日もこの良き知らせを聞き、良き人生を生きていきたいと願います。

    ( PBA制作「世の光」2019.5.2放送でのお話しより )

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