花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

市井からの眺め45弾丸列車④

2020年05月06日 | レモン色の町

<ゴールデンウィーク特集 幻の弾丸列車④>

島 安次郎は、和歌山県和歌山市出身で、薬種問屋の「島喜」の4人兄弟の次男に生まれ、東京帝国大学工学部を卒業している。エリートでアリマス。

島 安次郎ではなく 後藤新平さんの間違いでした 陳謝!
明治27年、関西鉄道・かんせいてつどう(四日市工場)に入社し、高性能機関車「早風」を投入するなど機関車の改良、等級別車輌に尽力した。

明治40年西末広町にあった関西鉄道本社

国鉄四日市駅西側に鉄道省官舎、線路をまたいだ東に鉄道省工場がある。(大正11年の地図)島氏は この工場に勤務していたと思われます。

明治40年 関西運河から鉄道工場を撮った写真(国鉄駅東から南向きに写したと思われます)

そして、関西鉄道が国有化されると四日市を離れ、明治40年、逓信省に移り鉄道院工作課長となり、技術幹部として国鉄の広軌(1435mm)改築計画に関与した。 しかし、当時の政界は狭軌(1067mm)を優先し、広軌への輸送力向上という主張は受け入れられなかった。 更に大正7年、原敬内閣で「狭軌ニテ可ナリ」という国会議決が可決され、署名捺印を拒否して国鉄を辞職した。
 辞職後、南満州鉄道株式会社の社長代理となり、「あじあ号」の設計に関与する。 満州との連結運輸が叫ばれ、「鉄道幹線調査会」が発足すると、委員長に選任された。 この委員会で東京から満州を結ぶ「弾丸列車」の新幹線構想が発表される。 内容は、複線電化、高速度列車、広軌(1435mm)など、現在の新幹線構想ほぼそのままであった。しかし、太平洋戦争により計画は中止、安次郎は、弾丸列車実現を見ずして没す、昭和21年の事であった。享年77歳。

この志は、昭和39年開通の新幹線構想として長男の秀雄に託された。

追記 下総人さんは、一時このマップの左下あたりに居住してみえたことがあります。コメントをいただきました。

鉄道省の四日市工場というのは、旧関西鉄道の四日市工場。
この記事に紹介されている島安次郎さんの職場だったところ。
工場はその後、名古屋工場に統合され、四日市工場の跡地は大操車場になりました。入替え用の機関車(C58、名古屋機関区所属)が常駐し、阿瀬知川沿いの踏切近くの転車台のある駐泊所付近に住んでいました。
昭和30年頃、浜田小学校からの帰り、上記の踏切で運悪く(運良く?笑)入替えの最中だと機関車が行ったり来たり。開かずの踏切で随分と待たされたのも懐かしくも楽しい思い出です。
このC58は入替えだけではなく、四日市港へ向かう臨港線の貨物列車牽引にも使用され、当時の私の家の前からよく見える臨港線を、夕空を背景に淡い煙を燻らしながら、ゆったりと横切って行くC58の小貨物は一幅の風景画であり、風物詩でした。

転車台跡が、空襲直後の航空写真に見受けることが出来ました。小さく左に〇が見えます。

鉄道省の工場はもう少し関西運河寄りだったか?

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿