花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

映画の世界と映画館 ②

2024年09月09日 | レモン色の町

映画産業の戦後復興は早かった。青山誠 著“浪花千恵子”より

なんと、終戦から2週間が過ぎた8月末頃には新作映画が封切りされ、戦災を生き残った映画館には客が殺到していたという。

四日市も昭和18年から20年にかけて米軍のB29による空襲を受け、中町の“世界館(閉館)”、南町の“弥生館”、幸町の“四日市劇場”、新町の“四日市東宝劇場”は消失している。終戦に伴い国家機関は映画関係者と再開に向けての協議を行っている。

昭和29年封切り、フェデリコ・フェリーニ監督の「道」を上映中の三重劇場

暗い場所と映写機さえあれば、どこでも映画は興行できる。焼け跡には粗末なバラックの映画館があちこちに建てられるようになり、夜には広場などを利用して上映会が開かれたりしていた。こうして昭和21年にはトップを切って“三重劇場”と“諏訪劇場(後の四日市東映)”、そして新町の“四日市東宝劇場”が、22年に“ラジオ劇場(昭和31年に日活劇場)”、“四日市劇場”が焼け跡の中から次々と再建された。

新町の四日市東宝劇場(旧 湊座)

昭和26年にサンフランシスコ講和条約が締結されると、GHQによる検閲も廃止され、かたき討ちがメインだった時代劇に許可が出た。それまで、ちょんまげ姿が演じられない片岡千恵蔵は、大映で新劇の“多羅尾坂内”を撮っている。「私は、好きで演じていた訳ではなかった」と述懐している。

四日市日活は、昭和32年封切りの 月岡夢路主演「白夜の妖女」を公開中

昭和27年には、全国で278本の映画が製作されたが、4年後の昭和31年には500本を突破している。映画館の数もまた急増していた。焼け残った映画館は全国でわずか35軒だったのが昭和30年には5184軒になっている。すべての産業が壊滅した昭和20年代の日本で、映画は数少ない成長作業だった。毎週、2本立てや3本立てで新作が公開され、新作を待ちわびる人々は映画館へと押し寄せた。当然、映画業界の現場はオーバーワークを強いられる。深夜になってもスタジオの照明が落とされることはなく、スタッフは覚せい剤の“ヒロポン”を注射してでも頑張った(ヒロポンは昭和20年頃まで合法されていた)、ってこれちょっとまずいんでないの?


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