花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

映画の世界と映画館

2024年09月07日 | レモン色の町

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“旧四日市を語る”第十集には、戦前・戦後の映画館や劇場のことについて話をされた記録があったので、再三ではありますが、昔の映画館について記してみたいと思いました。

戦後、三重劇場などは(再建が)早かった。新生劇場(四日市日活)はラジオ劇場と言っていた時もあった。弥生館や湊座(本町)跡の東宝劇場、かまぼこ型劇場の四日市劇場:よつげき、その後、諏訪に出来た諏訪劇、後に東映劇場(四日市東映)、東に行って(本町の踏切を渡った東)ロマン座、みやまど劇場:鉄骨やった、塩浜劇場、塩浜駅の東に豊劇場?があった。

四日市東映前に立つ辻さんの子供さん

ずっと後になってストリップ専門の別世界。ここはよく警察の手入れがあった。岐阜の人がやっていた。額縁ショーがあった(古い!ホンマか?)。富田劇場、太陽劇場、衆楽館、つばさ(富田は紡績工場があったから 映画館が多かった)。戦後の東宝劇場には歌手がよく来た。(原節子の)「青い山脈」、(マリリンモンローの)「帰らざる河」などを観た。戦前の菊水館:中町の世界館北は、浪花節。世界館の二階から菊水館の舞台の出し物が丸見えだった。

塩浜の海軍燃料廠に勤めてみえた兵隊さんのグループが立ち上げた三重劇場 事業がうまくいって ロマン座や宝塚劇場に着手していきます

活動写真:映画や芝居には三角袋の落花生が懐かしい。おみくじが入っていて燃やして占った(買い求めた記憶があります。戦後もしばらくは売られていたようです。みくじの紙に火をつけると、筋状に燃えて行って、占いの結果が抜け落ちる仕掛けでした)

弥生館で「愛染かつら」をした時は、東洋紡績の女工さんが列になっていた。この自分は桝席ではなかった(昭和13年公開 主演:上原健と田中絹代)。「透明人間」を観に行ったときは、まだ畳敷きやったが、桝席は無くなっていた(河津清三郎主演の「透明人間」は、昭和29年大映公開だから戦後の弥生館になるか?戦争直後の銀座の風景が背景にあった 桝席は戦後になりますから もうなかったと思われます)。桝席の時は縁をお茶子さんがたばこ盆などを運んでいた。湊座では、休憩の時は窓の黒幕を開けて明るくしていた。たばこの煙も出していた。開けると太陽の光が当たり、ホコリのちらちらが目についた(覚えがあります 太陽光の注す劇場内は まぶしくて違う世界になったような気がしました)

戦後の四日市劇場はよく行った(昔は世界館といった)。三本立、四本立ての時もあったかな。便所の臭い匂いが客席まで漂ってくるのさえ我慢すれば、安くて一番楽しめた。ほとんどチャンバラだった(東映作品の再映で 座席に座るのは至難の業 小学生は淵の手摺りに腰かけて鑑賞した)。

 


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