“男の囲炉裏端の会”の11月定例会では“お正月の思いで”のお題で15名の方が語り合いました。その議事録です。
A氏「12月30日には餅つきをしました。最後は、つきたての餅を臼から取り出して、あん、きな粉、菜、おろし大根を絡めていただきました。今考えると大変なご馳走だったと思います。年が明けて、三ケ日はお休みで、親戚が集まってきて賑やかなお正月でした。」
B氏「松坂市にあった我が家では、お正月は“すき焼き”と決まっていましたが、家が“和田金”の近くにもかかわらず、高級すぎて他の肉屋さんで細切れの肉を買っていました。でも大変おいしかった記憶があります。お正月は、親父に連れられておもちゃを買いに出かけました。」
- 三重県でのご馳走は牛肉を入れたすき焼きですが、千葉県では豚肉を入れるそうです。
C氏「お正月はおかしらつきの大きなブリを一匹、近所の魚屋さんで買い求め、半身は刺身に、もう半分は照り焼きにしました。年始の来客を含め、お正月のご馳走でした。」
D氏「米屋を営む我が家の年末年始は、忙しいだけで良い思い出がありませんでした。元旦になると年始挨拶の親戚が30人ほど集まり家中ごった返しました。女房は接待に大変だったと思います。」
- もち米と一緒にお米を混ぜて蒸す“たがね”は、お餅よりも好きという人もいました。
E氏「父親は、親戚の子供にはお年玉を渡すのに、自分にはくれなかった記憶があります。楽しかったのは、お正月になると子供も交え家族でマージャン大会をしたことです。」
D氏「お正月、店が開くのを待ちかねて、おもちゃを買いに諏訪の町へ出かけました。諏訪神社境内には、白い着物を着た軍人さんがアコーデオンを弾いて物乞いをしていました。学生時代になると“能楽”を学んでいましたので、熱田神宮などへお正月公演に出かけました。」
E氏「あまり良い記憶がありません。勤めが食品関係で“おせち料理”を販売していた時、食中毒を出して、年の初めに各家庭を謝りに回った記憶があります。どこでも厳しい叱責をいただきましたが、1軒だけ「他の品はおいしかったですよ」といわれたのが心に残っています。」
- 「相手の身になって考えよ!」と先生に注意されたことがありました。
F氏「8人家族で、お正月は炭で暖を取る堀炬燵に入り、鶏肉の入った雑煮を食べました。千葉県の九十九里では、雑煮の上に“青のり”を入れて食べるのがご馳走でしたが、今では青のりも見かけることがなくなりました。父親は親戚への年始回りで出かけたッきりでしたね。」
G氏「助産所をしていた我が家は、お正月も入院の人でいっぱいで、赤ちゃんのお世話の年末年始でした。学生になると洗濯等の手伝いをしたものです。家は三軒長屋になっていて1軒向こう隣に“本屋”があり、お正月に遊びに出かけました。男兄弟ばかりの当家と違い、そこは三人姉妹が住んでいて着物姿で迎えてくれました。お正月の華やいだ雰囲気の中に異性の空気を感じた楽しい思い出でした。」
- お正月、姉の同級生が遊びに来ていて、帰りに3人で家まで送ったことがあります。なぜか忘れ難い思い出です。
H氏「子供のころはトランプや五目並べ、かるた、こま回しなどで遊ぶのが楽しみでした。少し大きくなると、近所の文具店でプラモデルを買い組み立てました。サラリーマン時代には、元日から年始の出勤があって、早朝出かけるのが嫌で仕方がなかった。」
- 戦前 戦中は、元旦に学校で式があり紅白の饅頭が配られたそうです。戦後になると、元日からの登校は無くなり、創立記念日にもらえました。
後半に続く・・・
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