goo blog サービス終了のお知らせ 

花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

夜の伽に娘を差し出す村

2025年04月29日 | レモン色の町

YouTubeの動画を三本ご紹介します。

その1.獅子文六原作の「てんやわんや」。山中の村に訪れた旅人の接待に、その家の娘を夜の伽に差し出すというお話。接待をする美しい娘に桂木洋子。黛敏郎の奥さんになる方だそうです。全体はユーモラスに描かれているが、とんでもないお話であります。戦後すぐの作品ですが、現在だったら上品なポルノ作品に仕上がりそう。やや不自然ですが、モノクロ作品を きれいなカラーに仕上げていただきました。

てんやわんや / Tenya wanya (1950) [カラー化 映画 フル / Colorized, Full Movie]

その2.森一生監督の「決闘鍵屋の辻」。荒木又右エ門のかたき討ちのお話ですが、脚本が若き日の黒澤明。こんな時代に、リアルな切り合い作品があったとは驚きです。

荒木又右衛門 (あらきまたえもん) 決闘鍵屋の辻   森一生監督     三船敏郎 片山明彦 小川虎之助 加東大介 高堂国典 志村喬 千秋実 浜田百合子 左卜全 1952年製作

その3.AI.で江戸の世界が動き出します。感動ものです!

【感動】150年前の日本が動き出す!AIで見る幕末・明治の風景

文字をクリックしていただきますようお願い申し上げます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善光寺カーブと幻の合同駅

2025年04月28日 | レモン色の町

お話は明治38年の日露戦争時代に戻ります。勝利を収めた日本は、国内産業活性化の為に鉄道網の敷設が不可欠となり、明治43年に“軽便鉄道法(けいべんてつどうほう)”を布告します。この法により小さな車両を道路上(軌道)に走らせることが可能となりました。

大樹さんより 青の四日市鉄道と黄色の三重軌道は 現在の1番街付近に鉄道敷地の確保を進めてきました 明治40年頃

早速、名乗り上げたのが、四日市鉄道と三重軌道でした。四日市鉄道は湯の山温泉から四日市、三重軌道は室山や西日野方面から四日市への敷設を計画、申請しました。二つの鉄道にはそれぞれの思惑があり、浜田までは順調に敷設を進めてきましたが、そこから関西線四日市駅へのルートで問題が発生しました。両線路が交差するダイヤモンドクロッシングです。四日市鉄道は、湯の山、菰野、桜、小生(こも)を経てまっすぐに四日市駅西側に到達、三重軌道は、浜田から北へ東海道沿いを進み諏訪神社前で東に曲がり、諏訪新道を軌道として東進、関西線踏切の手前で南へ折れて四日市駅へ入るというものでした。これだと両鉄道の陸橋による交差状況が出来ます。これを避けるための検討が進められ、両社は四日市鉄道が申請した浜田から並列して四日市駅方向に伸ばす案に落ち着きます。(大樹さん ご指導ありがとうございました)

水谷宜夫さん提供 大正時代の両駅舎

申請時には、道路上も走らせる計画だった三重軌道は、四日市鉄道と並んで走ることとなったので、名称も三重鉄道と変更します。こうして、二つの鉄道がそれぞれ“すは”と“すはまへ”から大正5年四日市駅西側に出来た“合同駅”へと到達するに至りました。

両線路は並んで合同駅へ

〔第1話〕まぼろしの軽便ターミナル

一方、伊勢鉄道は、鉄道の空白地帯を埋めるべく大正13年には、高田本山の一身田から津、白子を経て四日市へと路線を伸ばしてきます(大正11年に伊勢鉄道乗り入れの四日市西駅が完成)。

右に善光寺を見て突き当りが合同駅 水谷宜夫さん提供

四日市市河原田地区に生まれた実業家 熊澤一衛氏は、大正14年伊勢電気鉄道社長に就任、全線電化を実現するとともに、四日市から名古屋への路線伸長を目論みます。

合同駅 この場所に善光寺カーブができる

四日市市内通過にあたり合同駅から諏訪駅間を買収、旧東海道沿いに諏訪駅を造って三重・四日市鉄道の始発とします。これにより合同駅は無くなり、四日市西駅の西側には、善光寺カーブが出現することになるのです。

昭和5年 合同駅舎は無くなり 西駅が建つ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善光寺カーブの誕生

2025年04月27日 | レモン色の町

明治40年頃のことである。日本全国の輸送網に鉄道が一躍脚光を集めた。当時三重県にあった鉄道は、関西鉄道(大阪 湊町〜亀山~津~名古屋)と参宮線(多気〜伊勢~鳥羽)のみであった(明治44年に両線とも 国有化されている)が、津~名古屋間の伊勢湾沿いは鉄道空白地帯だった。(参宮線はその名の通りお伊勢参りで収益が見込めたが、伊勢湾沿いを走らせても赤字に決まっとる!ということだったそうです)

現在の参宮線

そこで、明治43年公布の軽便鉄道法に申し出た伊勢新聞社長の松本恒之助は“伊勢鉄道”を立ち上げる(明治44年)。苦心の末、大正4年 一身田町〜白子、大正13年に 津〜四日市間を開設する。

熊澤一衛氏

大正14年 東海の飛将軍と呼ばれた熊澤一衛氏が伊勢鉄道社長に就任。全面電化を進めるとともに昭和5年には、桑名と伊勢神宮までの延長を遂げた。

近畿日本鉄道

この時、全線複線化による電化を目指していたが、買収難航が予想される諏訪駅を通る四日市市街地は、三重軌道と四日市鉄道が並行して走る旧路線を利用、この為 急カーブである善光寺カーブが生まれた。

昭和5年

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善光寺カーブの残影

2025年04月26日 | レモン色の町

大樹さんからコメントをいただきました。ありがとうございました。

一歩前へ出て パチリ!

写真の車両は名古屋から中川方面へ向かっている下り線車両だと思うので、ご指摘の運転区間プレートは同車両最後尾のもので実際の運転区間を示しているものではないと思います。

なるほど、これは諏訪駅を出て四日市西駅のホームへ向かう電車ですね。車両後尾の右側には、学生さんがひしめき合っていて、左運転席側は空のようです。諏訪駅で乗った四日市工業高校の生徒さんではないでしょうか?撮影者は、電車が通り過ぎた直後を狙い、踏切から一歩出てカメラを構えたようです。ここに遮断機はあったのでしょうか?

・・・それよりも、この当時まだ狭軌で運行しているはずの名古屋線車両に何故か標準軌である宇治山田~大阪間の区間標識プレートを付けていることに言及した方が良いかと・・・。もしかすると、名古屋駅で乗る乗客に分かりやすいように提示していたのかもしれませんね。

昭和31年頃の空撮 新しい中央道路と並行に線路が残る 右に善光寺カーブ

伊勢電鉄時代の線路幅は1.067ミリの狭軌、近鉄線は1.435ミリの標準軌で、線路幅が異なりました。この違いは、昭和34年の伊勢湾台風時に標準軌への切り替え工事が行われています。現在も、伊勢中川で名古屋方面と伊勢方面が分かれています。昔、知り合いが、夜遅く大阪へ帰るのに、伊勢方向へ行ってしまい、電車がなくなって伊勢中原で夜を明かした話を思い出しました。

<追記> 本日、表参道スワマエがスワマエらしからぬ賑わいを見せている。

お隣のワインとコーヒーの店 ネラビさんである。結婚式の二次会か?こんなので賑わうと良い 只今18時25分、店を閉めるのが申し訳なく感じる。来街者の期待に応えたい 通りをもっときれいに、賑やかにしたいナァ ひろすけ東海道デアリマス

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善光寺カーブを歩く

2025年04月25日 | レモン色の町

昭和5年、熊澤ビル(伊勢電鉄本社)から撮られた善光寺カーブである。津方面からやってきた電車は、四日市西駅に到着、その後 90度のカーブをえがき 軋み音をたてながらまっすぐ諏訪駅に向かって進んだ。中央に見える三角屋根のしゃれた建物が四日市西駅で、右に善光寺の大きな山門が見える。カーブを通過中の伊勢電鉄車両。

昭和31年 善光寺カーブを通過中の車両。ここで気になった。電車に張られているプレートは、宇治山田~大阪間とある。宇治山田~名古屋間 ではないのか?運転区間のプレートに間違いはあるまい。どなたかオセーテ

今は、正面にハローワークと本町駐車場が建っている。この辺りから右へとカーブしていた。

昭和43年のゼンリンマップであるが、①のあたりからの写真である。

水谷宜夫さんにお借りした1枚。②の位置から諏訪駅方向に善光寺カーブを写している。ここで少し気になった。右の大きな建物、三階建てに見える。これは何なのか???

これがその現在であるが、勿論、その建物はなく、まったく様相を異にしている。

③の位置、三和商店街前から見ると、それらしき建物が見受けられる。

今や、三和商店街も解体され駐車場となっている。三和商店街の向こうに望める大きな建物は、昭和43年のゼンリンマップからどうやら五光商会さんのようです。ま、そうしておきますか。 さてさて、この善光寺カーブは、どうして出来たか?調べ直してみました。 つづく

<おことわり> 今回の投稿記事「善光寺カーブを歩く」は、引っ越し先の「はてなブログ」さんと同一です。どこからでもご覧いただけますよう、気を利かした つもりでゴザイマス。エッ 引っ越し先は何処か?

花の四日市スワマエ商店街   文字をクリック願います 同じ記事でゴザイマス

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千葉の落花生 苦難の道

2025年04月18日 | レモン色の町

江戸中期から始まったと伝えられる、下総での西瓜の栽培。宙に上がった西瓜は、思いのほか高く上がりすぎてしまった。落ちて割れた西瓜に飛びつく子供。収穫の喜びが良く出ています。

初富(鎌ヶ谷市)・二和(船橋市)・三咲(船橋市)・豊四季(柏市)~と、下総台地には1から13までの番号の付いた地名があります。明治政府は旧士族に下総台地の開墾を勧め、開墾の順番が地名に残されました。当時は強風に強いお茶の木が多く植えられていたようですが、開拓団の知恵と工夫でスイカや落花生の栽培がおこなわれ、全国にその名を知らしめるに至りました。千葉の落花生が全国に知れ渡るまでには、苦難の道があったと想像できます。(千葉県教育委員会 下総台地の開発とスイカ・落花生生産 Webページより)

下総人さんのお住まいは千葉県。家の近くの公園には“十余一”の名前が残されているとコメントをいただきました。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽しい江戸の産品巡り

2025年04月16日 | レモン色の町

下総の国 野田(現:千葉県野田市)では、利根川と江戸川に囲まれた水運を生かし、大豆や塩を入荷して作り上げた醤油を一大消費地の江戸へ出荷しました。

大日本物産図絵より

醤油は葛飾郡野田 海上銚子等より出すこと夥(おびただ)しい 小麦を炒り 大豆に和して麹(こうじ)をつくり 塩を和して大桶に入れて 熟せしとき 布の袋につつみて〆器に入れて搾り 樽に詰めて諸国に出す 就中 野田のキッコーマン印は 上品にして八升六合入りを一樽と定む

亀甲紋に万の文字 キッコーマン醤油の歴史は古く、江戸時代初期からつくられていました。

江戸見物をしているような 楽しい本でした 図書館蔵

こうしてみると、なんと多くの物産品が国内で産出されていたことでしょうか。明治10年といえば、世間はまだまだ江戸時代。自給自足から輸出に目覚めたばかりでした。

東海道筋だけでも、伊賀の磨き砂・石炭、伊勢のあわび・熨斗あわび、尾張の扇・染物、三河の砥石・漆、駿河の竹細工・半紙、甲斐のブドウ・柿・干し柿、伊豆の椿油・炭、武蔵の錦絵・海苔、安房の水仙花・秋刀魚、上総の鰯・建干網漁、下総のすいか・醤油、常陸の養蚕・鯉などがつくられていました。

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゴッホと浮世絵の接点は?

2025年04月15日 | レモン色の町

明治10年8月開催された“第一回 内国勧業博覧会”に、三代広重は『大日本物産図絵』を出品しました。この中に錦絵『山城国宇治茶摘図(やましろのくにうじちゃつみず)』が二枚連作で描かれています。(錦絵とは? 浮世絵になかに占める多色刷りの木版画を錦絵というそうです。)

説明の文章から・・皇国第二の産物がお茶なら、第一は絹糸でしょうね

山城の国、京都の宇治茶を摘んでいる絵が一枚目です。五月、新緑の季節に家内総出で茶摘みを行っています。子どもたちは、家の仕事をよく手伝っているようです。簾(すだれ)が掛けられているのは「本簾覆下(ほんすだれおいした)」と呼ばれる栽培方法。日陰を作って茶葉を柔らかくしているのは、水沢の“かぶせ茶”と同じですね。

二枚目が『宇治茶製之図』です。図の右から、茶葉を蒸して、乾かし、篩(ふるい)にかけて選り分ける。こうして荷造り出荷となるのですが、

茶箱に「大日本 山城 宇治」の文字が!

“皇国第二の産物・・・”であるお茶は、木箱に入れて出荷されました。この木箱に「茶箱絵」と言われる木版画が貼ってあったのです。主要輸出国である西洋に出荷された「茶箱絵」は、海外で注目されるに至りました。

急いては事を仕損じる ゴッホ!ゴッホ

ゴッホは浮世絵の魅力にひかれ、自らの作品にも取り入れました。

追記:さて、下総の国の産品も記載されておりました。何かな? ヒントは、下総の国 野田 はてさて?

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

栄光の高岡銅器をご覧あれ!

2025年04月14日 | レモン色の町

越中高岡(現:富山県高岡市)は銅器の製造が盛んで、幕末明治期は輸出品として華やかな作品が次々と生み出されました。

伏木港が望める店舗とも工房とも判断し難い場で、若い職人が金槌と鏨(たがね)を手にして大きな龍の花瓶に取り組んでいますが、これは博覧会出品を控えたものでしょう。

内国勧業博覧会のような殖産興業を目的とする博覧会に高岡銅器は次々と出品、優れた技術と華やかさから、瞬く間に博覧会を席巻することとなりました。

武人文様彫金大香炉 68cm

高岡で活躍した二代目横山彌左衛門は、第1回内国勧業博覧会出品の『武人文様彫金大香炉』で鳳紋賞牌を受けました(高さ68cm)。東京国立博物館蔵『明治十年内国勧業博覧会列品写真帖』より

頼光大江山入図大花瓶 127cm

ところで、高岡銅器の評価は世界でも既に高く、明治5年のウィーン万国博覧会で二代目横山彌左衛門は高さ127cmの『頼光大江山入図大花瓶』で進歩賞を受けています。これらの作品を見ていると、明治初期の高岡銅器華やかし頃が偲ばれます。

昔から高岡には鋳物工場がたくさんあって、仏具製品の鋳造が盛んでした。リンゴの木箱に藁(わら)で巻いた花立などが送られてきて、木箱は割って風呂の焚き付けに使われ、藁は焚火にしました。出来上がった焼きいもは楽しみでした。藁やむしろの燃える様(さま)が眼に浮かびます。

さて、さて、日本の浮世絵は、来日の外国人に見いだされ世界に広められました。そのきっかけになったヒントが、この『大日本物産図絵』の中にありました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

物産品をばんばん見世る

2025年04月13日 | レモン色の町

『大日本物産図絵』は、浮世絵師 三代歌川広重が“第一回内国勧業博覧会”に出品した“錦絵”の揃い物である。

図書館さんのお世話になりました

明治10年8月追加訂正:大久保利通の提案で開催された、全国産業振興のための博覧会です)。(訂正削除:日露戦争に勝利した日本は)国内産業の発展を目指して、全国各地の物産品や事業の紹介を上野公園会場に一堂に集めて行われました。

第一回内国勧業博覧会

第一回内国勧業博覧会は、以後国内で開催される博覧会の原型となっています。

第二回内国勧業博覧会

フラン(訂正:パリ)で開催された万国博覧会の規模には及びませんでしたが、四日市で、昭和11年3月開催の国産振興大博覧会も、こうした上野の博覧会に刺激を受けたものでアリマス・・・ということを、本日開催の大阪万博を観て思いました。

最大規模となった第五回内国勧業博覧会

内国勧業博覧会 - Wikipedia

三代目広重の錦絵『大日本物産図絵』を見ると、全国各地の物産品が、地域の人々によってつくられ販売されている様子が生き生きと描かれています。そういえば、狭い日本のことですから、生産者の顔が良く見えていたんでしょう。戦前の表参道スワマエも、物を作り、修理しながら、店頭販売している店が多かったようです。

備前岡山石筆製図 三代目広重画

明治5年「学制(近代学校教育制度)」が敷かれ、学習の場は、寺子屋から学校へと移行しました。、『備前岡山石筆製図』は、鉱山から掘り出した“蝋石”を薄く切って、記帳用具として販売していたようです。

硬い石に石のペンで文字を書く。こすると消えるので、何度も書き直すことができる。只、卒業するころには、石板は割れて小さくなっていました。紙とペンの入手が困難な時代のお話です。そういえば、石板って小さい頃見たような?気が致します。白い石に粉がついていて、それを拭い取ってまた白い文字の落書きをしたような??? 幻でしょうか? 

そして、富山県高岡市の銅器の生産も江戸時代から有名でした。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする